【今回取り上げる論文】
「科学としての精神分析」
マーティン・ホフマン
Martin Hoffmann (2017) Psychoanalysis as Science. T. Schramme, S. Edwards (eds.), Handbook of the Philosophy of Medicine. Springer Science+Business Media Dordrecht, 937-956
【本書を選んだ理由】
精神分析学の内外から精神分析における科学性について批判があり,長らく精神分析では数量的研究や生物学的研究を行うことから遠ざかっていた。しかしながら昨今では,日本精神分析学会でエヴィデンスワーキンググループができて大会発表が重ねられるようになっているように,再び精神分析と科学性について私たちに考えてみることが求められるようになっている。日本精神分析学会では第62回年次大会(2016)から「エヴィデンスを考える集い」と称したエヴィデンスワーキンググループ企画が始まり,第69回年次大会(2023年)からは,学会で初めてのエヴィデンスに関するポスターセッションが設けられ,若手や中堅の学会員を中心に熱心に議論が交わされている。
今回,ホフマンの『科学としての精神分析』(2017)を紹介しながら,分析における科学的エビデンスについて,改めて正面から参加者と一緒に対峙してみたいと思っている。フロイトは生涯,精神分析を科学的な理論として考えていたように,精神分析の成り立ちは本来的には必ずしも科学と対立するものではないだろうとも発表者は考えている。ジャーナルクラブでは前向きで発展的な議論をしていければと思っている。
【文献の内容】
本論文は,トーマス・シュランメおよびスティーブン・エドワーズ編著『医学哲学ハンドブック』に収録された論文である。シュランメはリバプール大学哲学科長で,2009年から2016年まではハンブルク大学の哲学教授であった。エドワーズは1970年代から1980年代まで知的発達症と精神科看護の領域で従事し,その後イギリスのマンチェスター大学で哲学を学んで博士号(哲学)を取得している。今回紹介する論文の著者マーティン・ホフマン博士は,ドイツ,ハンブルク大学の研究員である。
本論文の中でホフマンは,カール・R・ポパーの議論を引用しながら「フロイディアンの精神分析理論は科学理論か?」と私たちに問いかける。ポパーは,20世紀の科学哲学の中心人物の一人であり,精神分析を科学とみなす可能性に対して広範囲に及ぶ議論を展開した人物である。彼の主な論点は,精神分析理論は科学的基準を満たさないということであった。ポパーによると経験論は実際には検証不可能であると主張している。というのも,帰納法(ウィーン・サークルのメンバーによれば,経験的理論を確認するために不可欠な推論手段)は,認識論的に深刻な問題を抱えているからとした。その代替案としてポパーは,演繹的推論にのみ基づく「反証主義(falsificationism)」を提唱している。この考え方によれば,経験論は反証可能でなければならない。つまり,理論の予測が観察データと矛盾する可能性がなければならない。一方で対照的にウィーン・サークルのメンバー(ルドルフ・カルナップ,モーリッツ・シュリック,オットー・ノイラスなど)は, 科学理論の意味論と方法論として検証主義を発展させている。
ポパーの議論は広く議論されたが,結局,2つの深刻な問題に直面しているため,うまくいかないことが判明した。第一の問題は,ポパーの反証可能性の概念そのものにある。この概念は,現代の科学哲学において,科学と非科学の境界線を画定するには不十分であると考えられている。ポパーは,反証可能性を,ある理論が一方にあり,観察的エヴィデンスがもう一方にある2つの場所の関係として概念化している。しかし,イムレ・ラカトスが説得力を持って示したように,ある理論の科学的地位を決定するためには,科学的理論が孤立して存在するのではなく,競合する理論とともに科学的言説に参加し,理論的変化や再定義の過程に組み込まれていることも考慮しなければならない。ポパーは、これらの考慮事項が研究プログラムの科学的地位を評価するために極めて重要であることを考慮していない(Lakatos 1978)。さらに,ポパーの考え方は,区分に対する「単一焦点」のアプローチである。彼は,理論の科学的地位の問題を決定するための基準を1つしか認めていない。これとは対照的に,現代の科学哲学では,科学と非科学を区分するという複雑な問題は,(もしあるとすれば)多基準のアプローチによってのみ答えられると考える人がほとんどである(Ruse 1982)。
ポパーの議論は第二の問題としてさらに深刻な理由で失敗している。ポパーは,フロイトの理論の事例研究や詳細な再構成を提示していない。他の科学哲学者たちは精神分析,例えばフロイトのパーソナリティ理論,強迫神経症の病因論,夢に関する理論が実際には反証可能な記述を含んでいることを発見している。これはフロイト自身によってすでに認識されていたことでもある(Grünbaum 1979)。さらに,仮にポパーが部分的に正しくフロイトの理論のいくつかが既存の定式化では経験的に検証不可能であることが判明したとしても,それらを経験的に検証可能にする,より正確な方法で再定式化できる可能性は残っている。
後に実証方法は飛躍的に洗練され,精神分析の基本原理を科学的な方法で検証し,妥当性を確認するために,実証研究を紹介・収集し,メタ分析を行ったモノグラフが数多く出版された(Fisher and Greenberg 1977, 1996; Kline 1981)。この進展はJ.M.マスリングが編集し,精神分析理論の実証研究を体系的に収集した書籍シリーズに結実している(第1巻マスリング1983年)。そのため現在では,精神分析理論の中心的主張の真理を証明する目的で作成された観察データや実験データが,実に数多く存在している。
科学的検証としてはフロイトの方法論には問題がある。たとえフロイト自身が精神分析を科学的プロジェクトとして考えていたとしても,彼自身の理論の検証に関する方法論的構想は深刻な問題に直面している。精神分析の研究方法論を,その治療方法論と深く絡み合っていると解釈する彼の考えや,治療の成功こそが精神分析理論にとって最も重要な検証であるという彼の主張は,前後即因果の誤謬の一例であり,したがって精神分析の実質的な科学的証拠を生み出すには不適切である。但し,ポパーの批判に反して,フロイト理論の主張の多くが実証的に検証可能であり,1950年代以降は精神分析理論の真理を証明し,精神分析療法の有効性を評価する目的で,科学的研究基準を満たす顕著な証拠群が生み出されてきたことは否定できない。現代の科学的な医学や心理学においては,精神分析の中心的な主張を科学的な研究手法で確認しようとする試みが成功するかどうか,また成功するとすればどの程度成功するかについては,大いに議論のあるところである。
ラカトスは研究プログラムの理論において,理論の公理,基本原理,中心的定理によって形成される研究プログラムの「ハード・コア」と,より専門的な理論要素,パラダイム的ヒューリスティックス,実験・観察研究の方法,アドホックな仮説などからなる「保護帯」とを区別している(Lakatos 1978, pp.47-90)。フロイトの時代には,精神分析は野心的な「ハード・コア」(フロイトの広範な著作の中で定式化された複雑かつ遠大な理論的原理)を特徴としていたが,実質的な科学的検証には欠けていた。1950年代以降に実施された観察的・実験的研究は,精神分析に驚くべき「保護帯」を装備させ,精神学,精神医学,臨床医学において影響力のあるよく知られた研究パラダイムに変えた。このプロセス的あるいは方法論的な意味において,今日の精神分析は科学的な研究プログラムである。しかし同時に,このプロセスは,精神分析理論の内容と精神力動療法の方法論の両方の「ハード・コア」を著しく薄めることにつながった。今日の精神分析理論に共通する中核をなす,一般的に受け入れられている定理は,かなり慎重に定式化されたものであり,特に具体的なものではない。このため,この研究プログラムの進歩性,現在の心理学のさらなる発展や意識哲学との関連性,さらには自律的な精神分析療法の有効性や効果に関する問題は,依然として大きな論争を呼んでいる。
【発表者の感想】
フロイト自身は精神分析を科学として捉え,発展させていこうとしていたが,精神分析理論の科学的検証に関して,フロイトの方法論に問題があったことは明らかである。これは,フロイトだけの問題ではなく,フロイト時代における心理学研究法自体が現在と比較すると,ごく限られた方法であったことが影響していたとも考えられる。また,精神分析理論に関しても,現代ではフロイト理論から発展した理論がさまざま展開されており,たとえば自己心理学のようなセラピストとクライエントの「体験に近い感覚(つまり,科学的に検証可能)」を重視する理論も展開している。このため,著者が指摘しているところの精神分析療法の「ハード・コア」を著しく薄めずに,科学的検証を行える領域がまだ手付かずのまま広域に残されているのではないだろうかとも思った。
クライエントは,家族も友人も疲れて聴くことのできなくなったこと,理解されないとクライエントが感じていること,つまり「誰にも言えない心の話がしたい」と希望し,心理療法に訪れる。このようなクライエントの主訴そのものをごまかしなく共に考えることができるのが精神分析療法の真骨頂であると,私は考えている。本論文は精神分析家にとっては耳の痛い話も多かったが,しかし,この問題に正面から対峙しないままでは,精神分析を未来に発展させていくことはできないとも思えるため,引き続き考えていきたいテーマである。
池 志保(福岡県立大学 人間社会学部)