【今回取り上げる論文】

The McDonaldization of psychotherapy: 

Processed foods, processed therapies, and economic class. (2016) 

著者:David M. Goodman  出典: Theory & Psychology. Vol.26(1), 71-95.


【本論文を選んだ理由】

David M. Goodmanは、「精神分析の倫理的転回」(Goodman & Severson, 2016)のムーヴメントをけん引し、「The Psychology and the Other」という学会を立ち上げた哲学者・精神分析家である。彼はその学会を、精神分析、哲学、神学、経済学、環境学、生物学、法学、フェミニズム、医学などの学際的議論の場とした。そこに示されるように、彼の持ち味は、現代のさまざまな問題をintersectionality(交差性)の視座から読み解くところにある。近年、ジェンダー論やマイノリティ論の中で、交差性をよく耳にする。彼は、そうしたテーマにとどまらず、世の中のすべてのテーマにこうした目を向ける。本論文は、臨床家に身近な治療的オリエンテーションのテーマを、そうした視座から読み解くような、他には見ない豊かな議論である。


【論文の概要】

物語は、「実証的に支持された療法(EST)」への問題意識から始まる。Goodmanが注目するのは、測定方法やエビデンスに関する疑問ではない。よくあるそうしたEST批判論は、その批判者自身がすでにESTの視座に組み込まれたものだからである。彼が注目するのは、治療論の言語可能性の違いや、マーティングの階級差、治療言語の利用可能性である。

背景にあるのは、保険会社の経営戦略である。米国市民は、保険によって利用できる心理療法の範囲が変わる。HMOなど安価な保険の契約者が利用できる心理療法は、手続きの決まった短期で低料金のものに限定される。PPOなど高額の保険の契約者が利用可能な心理療法の選択肢は多い。私費で払う経済力があれば選択肢は無制限である。保険会社の経営戦略のもと、臨床心理業界は、短期の手続きの明確な心理療法を増やした。保険の種類に関係なく利用されるからである。それを科学的にブランド化したのがESTである。

Goodmanは、その状況を、米国の臨床心理業界のマクドナルド化と呼ぶ。マクドナルド化とは、「効率性、事前指示可能性、計算可能性、人間以外の技術による代替、不確実性に対する制御を重視する」(Ritzer, 2018)システムの拡大を意味する。彼は、短期の、手続きの明確な、ターゲットを絞った、効果測定の簡便な心理療法が増える状況をそう呼んだ。


1. 言語体系の違い

Goodmanが注目するのは、治療論の解釈学的言語体系の違いである。彼にとって、「治療的オリエンテーションとは、人間が自分の苦しみ、意味、アイデンティティ、癒しを理解するために持っているさまざまな言語」(p.80)である。「エリスの合理的動機づけ行動療法(REBT)とクラインの対象関係論は、まったく異なるパラダイムとイデオロギーから経験を概念化し、言語化している。それらを有効性の軸に位置づけることは、それぞれの意味の伝統にとって異質な認識論であり、両者にとって異質な別の認識論が、独自の価値基準に従って両者の価値を裁定していることを明確に示す」(p.80)。互いに協約不可能(Khun, 2000)なそれらを、同じ解釈学的言語体系で評価することを喜ぶ臨床心理業界は、多元主義を重視するとのスローガンを掲げながら、自らの言語体系の多様性を貧弱なものにしている。


2. マーケティングの階級差

経済格差が激しい米国では、ファーストフード店が密集するのは貧困地域である。富裕層の多い地域には、いわゆるチェーン店は少なく、個性豊かなレストランが並ぶ。その違いはメニューと食材の多様性である。経済格差は、かつてのような「食べられる人」対「食べられない人」の分断ではない。それは、食べ物の種類と選択の幅が「広い人」対「狭い人」の分断である。摂取できる栄養素の種類が「多い人」と「少ない人」の違いである。インスタントラーメンは、世界の貧困問題に大きな効果を生んだ。それによって「食べられない人」は激減したが、「それしか食べられない貧困層」を生み出した。Goodmanは、その違いと貧困地域と富裕地域の平均寿命の違いが一致すると述べる。


3. 治療言語の利用可能性

Goodmanは心理療法も同様だと考える。「みんなが気軽に利用できるようになった」としても、利用できる心理療法は同じではない。貧困層が利用できるのは、短期の、手続きの決まった心理療法である。富裕層は、長期的で、手続きが柔軟な心理療法を利用するできる。問題なのは語彙である。手続きの決まった短期の心理療法は語彙が乏しい。患者は、治療者から決まった課題や指示を与えられ、それに従い、その範囲で結果を出すように要求されることが多いからだ。長期的で、手続きが柔軟な心理療法は、語彙が豊かである。患者は自分の体験を様々な言葉で表現し、人生の意味を探り、自分の世界を創るように促されるからである。

Goodmanにとって、こうした三つのポイントが集約するのは、社会構造である。彼は、ESTを推進する人たちは、善意でそれを推進していると強調する。彼らは、患者がよくかなったかどうかを測定するために、言葉を用意する。彼らも、患者も、その言葉が心の状態の良し悪しを評価するのと信じて疑わない。しかし、言葉は暴走する。その言葉によって私たちの文化が作られる。臨床心理専門家たち自体が、すでに製薬学者の定義する病名、保険会社の導く治療論の言語体験の中だけで世の中を判断していることに気がついていない。これはさらに、経済格差と教育格差を生み出す。貧困層が心をケアしようとしても選択肢は狭く、自己を表現する言葉は乏しくなる。富裕層の選択肢は広く、豊かな言葉で自己を探求する機会が与えられる。その格差は、学歴や職業の差となって表れる。やがてそれは、一方のコミュニティをより貧困に、一方をより富裕にしていく。私たちは、私たち自身の言葉を貧困にしつつ、貧困層と富裕層の格差を助長することに一役かっていることを理解するべきだということである。それに組み込まれているのも、それを作っているのも臨床心理専門家である。


【発表者の感想】

日本はどうだろうかと考えてしまった。臨床心理士制度ができる前、日本のメンタルヘルスの中心は精神科医療における比較的重度の精神障害を対象としたものだった。今や、多くの人が心理療法やカウンセリングを利用するようになった。一般の患者が、認知行動療法とか、EMDRとか、自ら治療法を指定して初回面接に来ることも珍しくなくなった。「メンタルヘルスがないがしろにされている。欧米で広がる心理療法が日本で普及していないのは異常だ」と、臨床心理業界は訴えてきた。今、私たちは「みんなが心理療法を気軽に利用できるようになったことは良いことだ」と評価する。誰もそれを疑問視しない。

日本の心理療法の値段と質の格差も決して狭くはない。日本の相対的格差社会は、心理療法の利用範囲の格差も生み出していないだろうか。臨床心理士が広まる30年前、日本人は「気が重い」「だるい」「寂寥感」「わびしい」と体験した自己状態を、「うつ病」とは呼ばなかった。Watters(2010)が例に挙げた製薬学者戦略に協力した精神医学者、臨床心理学者は、そうした言葉で伝統的な自己を奪った。自分たちがデザインした育児書は、私たち自身や、私たちの育児をデザインする。防衛や失策行為、転移などの概念や精神医学的診断基準が世の中に広まらなかったとしたら、人々は自分の言動や心をもっと違う形で捉えていたかもしれない。私たちの専門的実践は、問題を抱えた人に対する支援だが、その実践を通して将来の人の心の問題を作り出していないだろうか(富樫, 2024)。専門家は、専門的実践を通して作り上げる将来の日本人の心の状態への影響をどのように考えたらよいのかと、あらためて考えてしまった。


【文献】

Goodman, D. M. & Severson, E. R. (2016). Introduction: ethics as first psychology. In D. M. Goodman & E.R. Severson (eds.), The Ethical Turn: Otherness and Subjectivity in Contemporary Psychoanalysis (pp. 1-18). New York: Routledge.

Kuhn, T. S. (2000). The Road Since Structure. America: University of Chicago Press.

Ritzer, G. (2018). The McDonaldization of society: Into the digital age. Sage publications.

富樫公一(2024).応答する主体としての臨床心理学.『臨床心理実践サバイバルガイド 臨床心理学』, 増刊16, 97-103.

Watters, E.(2010). Crazy like us: The globalization of the American psyche. Simon and Schuster.

富樫公一(甲南大学)

【今回取り上げる書籍】

「トラウマと倫理 精神分析と哲学の対話から」

第一章 世界貿易センタービルの悲劇と生き残ること、精神療法

チャールズ・B・ストロージャー / ドリス・ブラザーズ /

ロジャー・フリー / ドナ・M・オレンジ


【本書を選んだ理由】 皆さんがご存じのように令和6年1月1日16時10分に、能登半島地震が起きた。発表者は被災県である石川に住んでいるが、私の住む地域は大きな被害を受けた能登地方から距離がありメディアでみる「被災地」と比べるとほとんどダメージを受けていないかのように見える。しかし、余震に恐怖し不安を抱えて生活し、また臨床の中で能登地方出身の患者さんや被害の大きかった地域から見えた患者さんと関わる中で治療者自身の心は大きく揺らされた。また、県内でも緊急派遣SCなどに積極的に参加している同僚がいる一方で、自分は参加していないことに、自分なりの理由や考えがあるものの、それでも「なぜ参加しないのか」といった問いかけにさらされている感覚が続く。そのような中、震災時の支援者向けの研修や書籍に触れる機会も多いが、自分にとっては本書で語られる治療者と患者の体験が自分自身を整え、落ち着けるために大きな役割を果たしたと感じている。まだまだ、被災地は大きな問題を抱えながらも、支援者にとっても中長期的な視点を持って関わる時期に移行しつつある今、JC参加の先生方とこの大きな災害について、また、それをめぐる色々な想いについて共有したいと考えた。


【文献の内容】 今回紹介する本書の第1章は2011年に広島で行ったストロージャー博士の講演録である。本章はタイトルの通り911の世界貿易センタービルにおける悲劇を生き延びた患者と治療者が精神療法の場の中で、そして外で何を体験していたかが記述されている。

 「患者たち」の項では惨禍を生き延び、日常生活を取り戻そうと苦闘する様子が描かれます。「パーソナルな自己の再登場は、たいてい、謝罪から始まりました。実存的な意味合いでは神への謝罪です。ある人物は愛するもののことばかりを心配しているなんて、私はなんてつまらない人間なのでしょう、とうなだれました。あんなに多くの人々が亡くなったというのに、自分の上司の話をしているなんて、私はなんて浅はかな人間なのでしょう、と述べた人物もいました。本当の痛みを負った人々を無視するなんて、私はなんて思いやりがない人間なのでしょう、とまた別の日とも語ります。こうした但し書きを口にすることで、あるいは、自分より何かもっと大きな力に謝罪することで、患者たちは、本来この治療を必要としたパーソナルな問題に再び没頭できるようになるのでしょう」と、自分自身の問題がささいなものでそれにこだわることについて何らかの言い訳、あるいは、断りを入れる必要があったようだ。また、患者の中には人間関係の維持が困難になり破綻した人たちもいる一方で、パートナーとの絆がより深まったと感じることもあったようだ。

 「治療者たち」の項では、同様に治療者の反応に焦点化されている。「この世界や犠牲者に言及することもなく、自己愛的に自分たちのことばかりを語る患者に対して、怒り、イライラ、退屈を感じ」個人的な事ばかりを話すことが世界の悲惨さを相対的に卑小化しているように捉えることもあるという。また、911以降、「多くの治療者が、彼らの基本的な実践方法を変えたことを明らかにしました。具体的にはそれは、自己開示が優位に増加している事でした。参加の共通体験があると、両者が共有する恐れや感情を語らないことが、どこか馬鹿げたことのように思えてきます」と自己開示を通じて、患者との親密さを深めようとするかかわりが増える一方で、専門家としての中立性が崩れているように感じたり、治療者が傷ついていることから頼りなく感じられたりしていることが報告されている。そして、治療者にトラウマへの羨望があり、生活が一変した同僚に対してうらやむような態度を取ったことが示されている。

 続く「苦悩」の項では、夢の報告とともに、子ども時代の体験と結びつく様子を描いている。

 

【発表者の感想】 私の住む地域は震災の被害が大きかった能登地区から距離の離れた加賀地域である。当日の揺れは大きく、津波警報に不安を感じて避難をした人も多かった。しかし、メディアに映る能登地区の惨状と比較し、また二次避難で非難されてきた能登地区の方々と関わる際に、「大変だった」「驚いたね」という前に「能登の人たちと較べたら全然大丈夫なんだけど」と言わなくてはいられない感覚がはっきりとあった。「自分自身のこと」は些細な事なのだ。一方で、本書での記述とは反対に私が会う患者の多くは、セッションの始まりのあいさつの中で触れた以降はほとんど震災についての不安については語らず、なるべく以前のセッションで扱っていたことの流れのままにしようとされていると感じた。これは、震災について語ることをタブーとしているというよりも、自分自身が被災者であるかのようにふるまう事への「おこがましさ」のようなものを私も含めて感じているのではないかと考えた。

浅田 伸史(小松市民病院 / さぶりクリニック / 児童家庭支援センター ファミリーステーションいなみえん)

【今回取り上げる書籍】

学習の生態学 ―リスク・実験・高信頼性(2022) 

著者:福島 真人  出版社:ちくま学芸文庫

【本論文を選んだ理由】

ジャーナルクラブに適した本ではないのかもしれないと思いつつ、人類学者であり科学技術社会学者である著者が提供する理論的枠組みは、(精神分析的)心理療法の学びを考える上で視点の転換に役立つのではないかと考え、選びました。この本の内容は以下です。

医療現場、原子力発電所等、一つ間違えば大きな事故が生じうる組織において、学習はどのようになされるか――。失敗を含む「日常的実験」の繰り返しこそ、現場での学習の資源である。本書では、このリスクを伴う試行錯誤を許す空間を「学習の実験的領域」と呼び、法的・経済的諸条件に影響され、組織ごと、状況ごとに変動するその不安定なありようを明らかにする。フィールドワークや豊富な民族誌的資料をもとに、学習を社会科学のテーマとして扱い、状況的学習論といった従来の理論モデルを超える新たな枠組みを示した。事故と安全、科学技術、組織といった具体的文脈のもとでの学習を考える、数々の概念装置を与える書。

詳しくは当日解説しますが、要は専門職が現場でどのように学習をしていくのかについて書かれた本になります。失敗、リスク、冗長性、実験といったキーワードから学習が読み解かれます。

私はこの本を読みながら、大学院生時代の実習先である単科精神科病院の事務局長とのやりとりを思い出しました。その事務局長はこう言いました。

「心理士にスーパービジョンとかいう制度あるじゃん?あれ、絶対おかしいよ。お金がない若者からベテランがお金を巻き上げるわけでしょ?どう考えても搾取だよ。だって、他の職種見てみなよ?そんな制度ないでしょう。みんな、現場でただで教えてもらってるじゃん。そうやって現場で学ぶものでしょう。医師だって、看護師だって。事務の仕事だってさ、お金払って外で教えてもらう?馬鹿馬鹿しい。カルト宗教じゃないんだから。そんなとこに入っちゃだめだよ」

 若かりし頃の私は「局長から見れば、そう思うのかもしれないですけど、心理の世界ってそういうものなんすよ」と答えました。しかし、事務局長からの問いかけはどこかひっかかるところがありました。(デイビスの『心理療法家の人類学-こころの専門家はいかにして作られるか』を読んだ時も局長を思い出しました)

(偶然ではありますが)前回の吉沢氏の発表は精神分析的臨床家がいかに成長していくかという内容でした。精神分析に興味がある私たちは、主に職場外での訓練を積み上げる中で臨床家としてどのように成長していくかを重視する傾向にあります。だから、一生懸命にスーパービジョンやセミナーに出て、自己研鑽を行います。私自身も、それらを重要なものだと位置づけています。

しかし一方で、私たちは実践を積み上げるという意味では現場を重視していますが、事務局長が指摘するように現場でどのように学んでいくのかという視点はやや乏しいようにも思います。その理由は、医師や看護師と異なって長らく公的資格ではなく民間資格であったという歴史的背景に加えて、一人職場が多く、若手ほど難しい現場で働くという業界の構造的問題があるでしょう。

私たちは現場で(精神分析的)心理療法を学ぶことができるのでしょうか。その答えは、精神分析的な臨床家に成長することを精神分析的治療者になるという全人的な成長と捉えるのか、他の心理療法と同様に主に技能の習得(学習)と捉えるのかによっても異なるでしょう。言い換えれば、「精神分析的心理療法」の精神分析に強調点を置くのか、心理療法に強調点を置くのかの違いかもしれません(山崎、2023)。そのあたりの異同も含めて、現状のシステムの中でいかにして私たちは現場で心理療法を学ぶことができるのかについて皆さんと議論できたらと考えています。このことは世間から見向きもされなくなりつつある精神分析業界を教育という面からいかに生き残らせていくかを考えることでもあるかもしれません。

山口 貴史(愛育クリニック/あざみ野心理オフィス)

【今回取り上げる書籍】

The Psychoanalyst's Superegos, Ego Ideals and Blind Spots:

The Emotional Development of the Clinician(2019) 

著者:Vic Sedlak  出版社:Routledge

*訳書『心理療法家の情緒的成熟 — 逆転移に含まれた超自我、自我理想、盲点を考える』(乾吉佑監訳,2022)

【本論文を選んだ理由】

キャリアの中盤に差し掛かると、専門家としての自らの在り方を誰しも考え直す機会があるだろう。若手の頃に抱えていた自らのキャリアや専門性をめぐる多くの迷いや葛藤は、中堅ではまた別の形としてあらわれてくる。特に精神分析的心理療法や精神分析に基づいた臨床実践を行っている者において、日本の現状を踏まえるならば、多くの葛藤や困難さがあるように思われる。若いころに迷いながらも、盲信しつつ学び取り入れた精神分析的な見方や考え方を相対化し、自分らしい臨床家をさらに模索していくことになる。やはり精神分析とは探求する価値のあるものでありさらなるコミットメントをしていくのか、あるいは意義があり含蓄のある興味深い視点を提供してくれると認識しつつも、その価値は本当に自分をかけるくらい重要なものなのだろうか、と。本書を選んだ私の動機は、このようなものであるが、当然のことながら答えが本書に書かれているわけではない。しかし、本書でセドラックが描きだす、彼自身と彼の同僚の精神分析家のキャリア発達における内的体験プロセスには、私たちが、精神分析をいかに学び、実践し、いかに自分らしくあり続けるのかという、その迷いと苦悩を持ちこたえていくための重要な示唆が多く含まれている。精神分析に価値があるのかを判断するのは本書を読んだ読者であり、本書自体にそれが記述されてはいないが、精神分析家、精神分析的セラピスト、精神分析を学んで活用しようとする臨床家が成長していくプロセスで陥るだろう多くの共通項が提示されているので、私たちの日々の個人的悩みが実際にはキャリア発達上誰しも経験するもので、乗り越えていく必要があるものだと理解できれば、もう少し探求を進められるかもしれない。セドラックは2013年に開催された日本精神分析学会において、「成長した心理療法家における発達-大切な対象の哀悼が必要なこと-」と題した講演を行っている(精神分析研究57(3) :220-233)。「大切な対象」とは、私たちに影響を与えている精神分析の先達であり、私たちがさらなる発展を遂げるためには、そのモーニング・ワークが必要であることを彼は主張している。本書においても、この考えが基本にはある。私たちが魅了され訓練と実践を積み重ねている、この精神分析とはいったい何なのか、私たちにどのような影響を与えているのだろうかと、あらためて議論する意義はあるだろう。本書はその議論のための題材が多く含まれている。


【本書の概要】 

本書は、次のような8章から構成されている。1.精神分析治療の目的、2.精神分析家の超自我、3.恐怖から不安へ、4.精神分析家の自我理想、5.分析の失敗を考えること、6.スーパーヴィジョンの仕事、7.他のアプローチへの検討、8.終わりある敵意と終わりなき敵意。セドラックは、中間学派の精神分析家に位置づいているようだが、本書を読む限りでは、その中心的スタイルはポストクライン派のように思われる。彼は、逆転移に関する研究を積み上げてきている。どの章も、分析家の陥りやすい逆転移についての考察であり、分析家の個人的テーマと、治療関係上のテーマが微妙に絡み合う複雑な課題に焦点をあて議論している。今回私は、第2章の「精神分析家の超自我」、第4章の「精神分析家の自我理想」を取り上げて、議論したいと思う。両章において、フロイト以来、精神分析の中でそれぞれの概念がどのように位置づき、変遷してきたのかを概観した上で、事例を用いて、いかに精神分析家が自らの超自我や自我理想の問題が、日常的な実践に入り込み、患者との関係に困難さをもたらす可能性があるのかが描写されている。セラピーにおいて通常私たちはクライエントの超自我や自我理想の問題を検討するかもしれないが、セラピスト自身について検討することも重要であり、その上で有益な検討点をセドラックは提示してくれている。私たちは、影響を受けた先達たちのモーニング・ワークを進めることができるだろうか? 私たち個々人が臨床におけるアイデンティティを発達させていく上で、精神分析をどのように位置づけることができるだろうか?

吉沢 伸一(ファミリーメンタルクリニックまつたに)

【今回取り上げる論文】

「Supervision With Marian Tolpin: The Total Transference」(2012)

著 者:Thetis R. Cromie D.Mn. Ph.D.

International Journal of Psychoanalytic Self Psychology, 7:1, 112-130.


【本論文を選んだ理由】

精神分析では治療者が症例の転移を扱えているかどうかが、「精神分析とみなす」上での重要な判断基準とされる。「扱えている」とは「できている(can)」かどうかということであり、それが「できていない(can’t)」治療はたとえ症例の症状や問題が改善されたとしても、「これは精神分析じゃない」と烙印を押されることにもなりかねない。しかし精神分析で扱うべき「転移」とははたしてどういうことなのだろうか?精神分析でワークスルーすべきとされる転移は一般的に「病的な転移」であるとされるが、はたして分析でワークスルーすべきことは「病的な転移」に限られるものだろうか?

Kohut, H.はこれまでの伝統的な精神分析で取り扱うべきとされてきた転移を病的なものではなく、発達促進的な意味があることとして転移の健康的側面を積極的に論じ、転移概念のパラダイムシフトを起こした。またMarian Tolpin (2009)はフォワード・エッジ転移(Forward Edge Transference)の概念を提示し、転移の健康的で創造的な意味と実践効果を鮮やかに示している。それでは「健康的な転移」を実際の分析場面においてどのように扱えばよいのだろうか。本論文はTolpin, M.がスーパーバイザーを務めた、スーパーバイジーによるケーススタディである。Tolpin, M.のスーパービジョンではどのようなことがスーパーバイジーとの間で語られているかに、私は臨床家として強い関心を抱く。

今回、NAPIのジャーナルクラブで本論文を取り上げてみたのは、Tolpin, M.のスーパービジョン体験を私たちも追体験しながら、フォワード・エッジ転移(Forawrd EdgeTransference)の臨床実践について学んでみたいというのが理由である。そして精神分析における「転移」について、参加者と一緒に理解を深めていければと思っている。


【本論文の概要】

 本論文の著者はシカゴ精神分析研究所およびロヨラ大学シカゴ校に所属しているThetis R. Cromie博士である。医学博士Marian Tolpinが2年半に及ぶThetisのスーパーバイザーを務めたコントロールケースを提示しながら、Tolpin, M.がスーパーバイジーとの間で本症例をどのように理解していったか、そしてスーパーバイジーが見落としていた健康的な転移の側面についてのTolpin, M.の語りが記録されている。論文で提示された症例Bob(仮称)は30代の独身のゲイで、ボーイフレンドとの失恋を契機に治療が開始されるが、服薬治療だけでは軽快せず、週4回のカウチによるThetisとの精神分析が開始されている。Thetis はBobの中心的問題を「力強い男性になりたい願望」と見立てて分析を行なっていく。Bobとのセッションが進んでいく中で、彼が印象的な夢、すなわちマンションをリフォームする夢を報告しているのだが、この夢についてTolpin, M.はスーパービジョンの中で、夢の中にトレーリング・エッジとフォワード・エッジの両方が見えることを指摘している。Bobのリノベーションの願いは、マンションに喩えられた健全で壮大な自己のテンドリル(植物の巻きひげ)であること、これは「シシィ(男を好きな男の子)」や「ファグ(同性愛者)」という蔑称で表現される、傷ついた彼への見方とは対照的なフォワード・エッジであることをTolpin, M.は読み解いていく。このようにTolpin, M.のスーパービジョンでは、分析家が気づくことのなかったフォワード・エッジ転移への理解が印象的に語られていた。治療の過程で症例は新たな自己肯定感を持ち、さまざまな影響を許容できるようになり、複雑さを理解する能力を高めて自分と他人を理解できるようになっていった。これらのことはすべて、症例が想像していたよりもはるかに充実した人間関係を実現するという目標に貢献することとなっていった。この分析でBob自身も信じることのできなかった彼の自己肯定感が育まれていき、そしてその成果を分析のおかげであることをBobが感謝しながら、分析は約4年で終結している。

ThetisはTolpin, M.とのスーパービジョンを通して、異なる転移、すなわち病理による転移と健康的な転移といった二つの転移の次元があることを理解し、それらがしばしば絡み合っていることを理解するようになっていく。また本論文ではTolpin, M.の概念的枠組みが精神病理を治すだけでなく、心理的能力や心理的リソースの発達を促進することができることも示していた。


【発表者の感想】

本論文で描かれた被分析者はゲイの方であった。治療者との精神分析の果てに辿り着いた先が、この症例にとっては「自分は病気じゃない」と思えたことであったことに、私は良い意味での衝撃を受けた。このことが示したパラダイムシフトは極めて重要であり、精神分析で扱うべき転移はなにも「病的なもの」であるということに限らないこと、「健康的な転移」を含めて全体としての転移概念を扱うことへの勇気をもらえたようにも思うからである。本論文は転移概念をより豊かで、治療的意義のあるものに拡充させてくれていると感じた。

私たち臨床家はなんらかの問題を抱えた患者が来談した際、患者の「病的な部分」をアセスメントするように訓練されてきた。しかしそれと同時に、いえ、実はもっと重要なこととして、患者の脆く繊細な「健康的な部分」を見逃してはいけないということをTolpin, M.は臨床実践を通して証明し、教えてくれているように思った。


【引用文献】

Marian Tolpin(2009) A New Direction for Psychoanalysis: In Search of a Transference of Health, International Journal of Psychoanalytic Self Psychology, 4, 31-43.

池 志保(福岡県立大学)

【今回取り上げる書籍】

「Theoretical and Clinical Perspectives on Narrative in Psychoanalysis 」(2021)

著 者:Joye Weisel-Barth

出版社:Routledge


【本書を選んだ理由】

 精神分析は語りを扱う。治療者は患者の語りに耳を傾け、自らの実践を振り返ってそれを語る。私自身も、自分の臨床実践をさまざまな機会に語ってきた。それは個人的な語りの場合もあれば、公の場での症例発表や論文による語りの場合もあった。それは、誰の語りなのだろうか。私たちが臨床実践を語るとき、多くの場合、その場に患者はいない。語り手はほとんどの場合、患者の語りを聞いた治療者である。

 精神分析の領域でなくとも、構成主義的な視点から検討された語りについての考察は、人間の経験が物語づくりを通して組織化されることに注目する。患者や治療者といった個人の語りについて考えるならば、その通りだろう。しかし精神分析の臨床実践は、語られる者と語りを聞く者とのやり取りであり、その語りは間主観的なプロセスとして浮かびあがる。その二人は、それぞれの歴史的、社会的、文化的状況に組み込まれている。そのようなやり取りはどのように記述されるのだろうか。さらに、その間主観的プロセスは治療者によって治療者の経験として組織される。それは、どのように記述されるのだろうか。そのような疑問持っていた私は、本書で語りを探究する同僚でもあり友人でもあるJoyeの語りに耳を傾けた。その意味では、私は確かに、本書を精神分析における語りの理論を探究する一般的な書籍の一つであると思って読んだ。

 しかし私は、読み進めていくにつれて、本書がそのような議論をはるかに超えたものであることを知った。ほとんどの章が彼女の自伝的語りで構成された本書は、著者自身が一人の人間として歴史、文化、社会的状況の中で生きていた軌跡を述べるものだった。さらにそこには、一般的にこうあるべきだと考えられている精神分析や精神分析的心理療法の治療的手続きをはるかに超えたやり取りが語られていた。彼女はそれを、自分の語りとして実にオープンに語っていた。私は本書を紹介することで、NAPIの同僚たちと、私たち治療者が患者の語りをどのように語るのかについて議論し、さらに、私たちの日常的な臨床の姿は誰によってどのように語られるのかを考えたいと思って本書を選んだ。


【本書の概要】 

 Joyeは、序文と序論ⅠとⅡで、哲学、精神分析、神経科学など、物語に関する文献を概観し、人間がいかに物語を持って生まれ、物語を作り、物語を語ることを発達させ、物語によって人生を構成しているかを説明する。彼女は、物語におけるFredの実証主義的視点と、SpenceやShaefer、Brunerなどが提供する構成主義的視点を検討し、人間の経験が物語づくりを通して組織化されることを論じる。そして彼女は、「多くの精神分析理論は、時間の経過とともに、還元的で閉鎖的になってきた。現代の多くの分析家は、理解を広げるために、そして……異なる視点を引き出すために、理論のストーリーを混ぜ合わせることを選んだ......しかし、異なるモデルや言語ゲームからアイデアを借りてきて融合させることで、時に私たちはバベルの塔を構築していることがあり、その結果、臨床の物語はしばしば内的一貫性を欠いている」と述べる。

 第1章でJoyeは、彼女が精神分析トレーニングを受けていた頃のコントロールケースの一つであるLalaとの作業について述べる。彼女は、学会でそのケースを発表したときのBob StolorowとLewis Aronの議論やコメントが同意できるものではなかったと述べる。彼らの議論は、権威者的・男性的な視座から語りであり、Lalaと彼女が紡いできた語りとは異なるジェンダー的文脈からのものだと批判する。Joyeは、このようにして、患者との出会いにまつわる自身の語りをすべての章で続ける。第2章は、精神科の初期実習で出会ったほとんど口を開かない患者Sharonとの関わりである。Joyeは、中立性を守ることを求めるスーパーヴァイザーの意見に従わずに、Shaoronに自分自身の話をした。第3章でEnvyに注目するJoyeは、患者のEnvyではなく、自分自身のそれについて語る。彼女は、患者である芸術家にEnviousになり、最終的にアーティストとしての活動を再開する自分の姿を語る。第4章と第5章、第6章では、臨床家の理論的語りが、そもそも非線形で多層的、予測不可能な臨床プロセスを記述するには向いてないことが論じられる。第7章以降、ジョイの語り口はそれまで以上に正直なものなっていく。第7章では、自分を撃ちに来た重度のうつ病患者Susanとの作業、第8章では、母親と妹を殺してしまったMark、第9章では、トラウマと混乱から海に身を投げたMayaのケースについて語られる。どの章でも、中心的に語られているのはJoyeの心情である。第10章でJoyeはLaraのケースに戻る。この章では、分析パートナー間の情熱的で親密な愛情描かれている。ある日、路上で捨てられた双子の子犬を拾ったLalaは、子犬たちをそのままセッションに連れてくる。彼女はJoyeに引き取ってくれる人がいたら紹介してほしいと述べるが、Joyeはそのうちの一頭を引き取った。しかし、そのおかげでJoyeの家に前からいたDukuという犬が攻撃的になってしまう。人を襲うようになったDukuは、安楽死させられる。偶然同じ獣医のところに通っていたLalaはたまたまこの話を知り、Joyeに対して「あなたはひどい人だ」と詰め寄る。この話を通してJoyeは、境界侵犯をした自分の責任と二人の愛について語る。最終章はKatherineの話である。患者は、自殺未遂を繰り返すいわゆる重いケースである。Joyeに強いコミットメントとサポートを求め続けた患者は、最終的にいなくなる。Joyeは彼女がいなくなってほっとしたことを正直に語るが、それでも、彼女のような人がまた来れば自分は喜んで仕事をするだろうと述べる。


【発表者の感想】

序章を読み終えて本章を読み始めると、章が進むにつれて「語り」に関する直接的な議論が少なくなっていくことに気がつく。その代わりに、Joye自身が体験した患者との壮絶な精神分析的作業が語られていく。私は、「語り」はどこへ行ったのだろうと思いながら読んでいた。実際、終盤の彼女の文章には「語り」という言葉はほとんど出てこない。私は、Joyeはまた自分のことばかり語っていると思った。しかし最終的に、私は自分が「語り」の間主観的意味を本当には理解していなかったことを知った。私が期待していたのは、「語りについての一般理論の考察」や「患者の語りについて解説」あるいは、「語りの間主観的プロセスの探究」などであった。それはいずれも、語られたものや語りという現象を、外側から探究し、解明しようとするものである。私は、語りの間主観的プロセスは、語り手も、語り手が語る人たちも、読み手もその中に組み込まれた中で進むもので、外側から見れるものではないと理解した。

私たちは、学会などで臨床事例をまことしやかに「語る」が、それはどこまで私たちの語りなのだろうか。それが、患者の真実の姿を語ったものではないことは明らかである。臨床事例を適切に解説したものではないことも明らかである。だから私は、以前から、臨床家は自分の体験を語っているのであって、患者や治療を語っているのではないと述べてきた。しかし、Joyeの語りを読むと、それが彼女個人の体験を語ったものだけとも言えないと感じられた。むしろ、彼女は精神分析や時代、米国社会という大きな歴史、文化、社会の中で語り手としてとして語らされていると言った方が良いようにも思った。彼女の語りはすべて、彼女の生きてきた歴史、文化、社会の中に浮かび上がったものだからである。 

もう一つ本書は、語りの議論とは別に、本書に率直に書かれた臨床家の態度についても考えさせられた。それは「公式」の臨床的な議論には出てこないが、それに近いことはある程度経験ある治療者ならばやっているようなことである。具体的には、患者の結婚式に出席したり、患者に自分の話を聞かせたり、患者にあなたが妬ましいと伝えてみたり、患者が拾ってきた犬を育てたりなどである。そうした臨床的姿勢についての議論もしてみたいと思う。それは、臨床家の正直さの議論になるだろう。

富樫公一(甲南大学)

【今回取り上げる論文】

「The Social Unconscious in Clinical Work」

著者:Earl Hopper

Group, Vol. 20, No. 1, 1996

*『The Social Unconscious Selected Papers』(Earl Hopper,2003)の第6章にも収録


【本論文を選んだ理由】

 精神分析的心理療法の実践では、内的世界を考えていく作業が中心であり、そこには患者が生きてきた歴史が深く関り、治療関係の中で転移として姿を現す。それをどのように取り扱うのかということは重要なテーマであるが、理解の仕方は学派や個々のセラピストで異なる。一方で、その歴史には、患者が生きてきた社会状況、あるいは世代間伝達されているさらにその上の世代が生きた社会状況という個人を超えた歴史性、いわば文化的な背景が色濃く影を落としている。とりわけトラウマ的な体験はそうだろう。ところで、日本には、古澤・小此木の「阿闍世コンプレックス」、土井の「甘え」、河合の「中空構造」、北山の「自虐的世話役」などの文化論があるが、急速に変わりゆくこの現代に生きる人々の心をどれだけ捉えきることができるのだろうか。あるいは、共通の基盤は見出せるのだろうか? 「社会的無意識」という概念は、抽象的な定義しか与えられていないが、だからこそ、様々に議論する余地が残されていると思う。私が本論文を選んだ理由は、日常臨床の中で私たち臨床家が向き合っているクライエントの心に浸透している「社会」について、多様な観点から議論してみたいと思ったからである。


【本論文の概要】 

 Hopper(1981)によれば、「社会的無意識」は次のように定義される。「人々が気づいていない社会的、文化的、コミュニケーション的な取り決めの存在と制約を指す。これらの取り決めが認識されていない(無知)、認識されていても認められていない(否認)、認められていても問題視されていない(当然視)、問題視されていても最適な程度の距離と客観性をもって考慮されない。社会的制約は神話、儀式、慣習の観点から理解されることもあるが、こうした制約は、特に地位の硬直性が高い社会では、本能や空想の制約と同じ程度に「未知」の領域である」。彼は、「社会的無意識」の概念を使い、社会階層やトラウマの問題を議論している。そして、興味深いのは、「Here & Now」「There & Then」の取り扱いをめぐり、「There & Now」「Here & Then」という二軸を追加し、臨床的交流を4つの領域に仕分けて考える視点を提供している。実践ではバランスが重要ではあるが、「There & Now」「There & Then」が「社会的無意識」の探索領域とされる。そしてさらに、新たなパラダイムが投入される。①患者により政治的・社会的課題が語られるか否か、②分析家が外的社会事実を重視するか否かの二軸を加え、内的対象関係の展開あるいは社会的無意識の展開として治療関係を検討する視点を提供している。その観点からグループの臨床素材が検討される。最終的には、Erich Fromm (1963)の「革命的性格」をひとつの成熟モデルとして提示し、「人が社会的状況を問題視できるほど十分に分離していながら、社会的状況に共感し、影響を受け、ひいては影響を与えたいと思うほど十分に関与できるような発達段階」の意義を論じている。革命的性格は、社会的無意識を意識化する必要があり、成熟にはイドを自我に置き換えることが必要だという考え方を補完するものである。明らかに、権威に対する攻撃は、必ずしもエディプスの未解決の葛藤の表現ではない。同様に、現状を維持しようとする権威者の試みは、必ずしも責任感と高潔さの表現ではない。


【発表者の感想】

NAPIのRoger Frie先生を招いた企画で、クライン派の立場から社会・文化を考察している分析家として、エセックス大学のKarl Figlio先生の存在を教えてもらった。彼はフロイト由来の超自我と自我理想の観点から、個人に内在化された文化・社会的状況を考察し、「Social Subject」という概念を提示しHopperの考えを補完している。今まさにこの臨床状況で、文化・社会・歴史がいかに影響を及ぼしているのかを見る視点と、その対象が生きてきた過程でいかにそれらの影響があったのかを見る視点の両方が重要なのだろう。転移状況は内的対象関係の反映であるが、その対象の背景にある歴史的・社会的文脈を見ていく視点が不可欠だと改めて感じた。何気ない臨床状況にそれらの影響は潜んでいるのだろう。その対象の背景に視野を広げていくことは、「転移解釈」か「転移外解釈」かという不毛な単一思考を脱し、クライエントが囚われ身動きとれなくなっている、あるいはある感情・思考・行動が駆り立てられている諸要因を理解するプロセスにおいて必要不可欠な営みだと深く考えさせられた。

吉沢伸一(ファミリーメンタルクリニックまつたに)

【今回取り上げる著書】

『中動態から考える利他―責任と帰責性』(2021年)

著者:國分功一郎

「利他」とは何か(集英社新書) 第4章


【本書を選んだ理由】

 國分は2017年の『中動態の世界―意志と責任の考古学』以来、一貫して責任について考えている。國分自身が言うように、当該書では意志の概念は徹底的に批判されたが、責任概念については十分に思索が深められていない。彼はその後、熊谷晋一郎との共著で『<責任>の生成』を出版するなどしているわけだが、最新版がこの論文になる。本論で重要なのは「責任responsibility」と「帰責性imputability」の区別を試みたことである。國分の思考は着実に進展しているが、社会における「責任」という概念をいまだ十全に説明できているとは言いがたいので、みなさんとさらに考えられればと思って選択した。


【本書の概要】

 ポストモダンにおいては近代的な主体性が批判された=主体の能動性が疑われた=受動性が強調された。だが能動/受動の対立ではシーソーにしかならないので、この対立をこそ「脱構築」せねばならない。そこで登場するのが中動態である。そもそも「能動的な主体」という概念の存在理由は、責任概念にある。ポストモダニストとして主体概念は批判するにしても、責任概念については別のものを提示せねばならない。

能動と受動を対立させるのは、自発的か否か=意志の有無を明確にするためであり、「尋問する言語」と言える。だが、古代ギリシアには意志の概念はなく、それは歴史上のある時点で登場したものである。なぜ登場したかと言えば、意志概念を使うと行為をある後者に帰属させることができるからだ。本当は原因はどこまでも遡れるが、それでは誰にも責任がなくなってしまうので、意志概念を使ってその因果関係を切断することにより、責任主体を指定することができるのである。

だから意志概念は理論上のものにすぎない。しかし責任概念は現代においても必要なものである。ゆえに責任を肯定する思想を作りたい。そこで肯定される責任概念は、意志という不完全で問題含みの概念に依存するのではない概念でなければいけない。そこで参考になるのがギリシア悲劇。そこでは運命の被害者としての人間と、決定的な何かをなした加害者としての人間という一見対立する考えが並立している。

 この被害者と加害者の両立というのは、現代の加害者臨床における治療共同体や当事者研究にも見られる構図である。そこでは免責によって責任感を抱くことが可能になる、というテーゼがある。

 私たちはこれまで、責任responsibilityと帰責性inputabilityを区別してこなかった。前者は応答responseに由来するもので、自らがもたらしてしまった被害と被害者に対して、自分が応答しなければならないと心から感じることであり、実に中動態的である。後者は罪の帰属先を確定することだが、帰責されたからといって責任を感じるとは限らないという問題がある。今後は両者を区別し、応答としての責任そのものを概念化したい。


【発表者の感想】

 たしかに責任と帰責性の区別は重要である。國分が興味を寄せている依存症臨床や加害者臨床でも役に立つだろう。だが、臨床では明確な被害―加害関係がないことも多いし、万能なわけではない。

 國分の言う意味での「責任」を取れるようになることが、ひとつの典型的治癒像であることはまちがいないだろう。でも一方には「失敗してもなんとなく許し合って生きていければいいじゃん」と思えるようになる、といったような治癒像もある。それは責任も帰責性もない世界、と言えるかもしれない(それは近代以前の世界なのかもしれない)。國分は責任概念は活かすべきだと言うが、しかし私たちが現行の社会制度を採用し続けるのであれば、帰責性の概念を棄却するわけにもいかないだろう。

 また、免責により中動態的に責任の感覚が生まれるというのが國分の論であるが、実際には依存症臨床や加害者臨床のプログラムでは相当に「心理教育」が埋め込まれている。これはまったくもって中動態的ではない。本当に免責が責任感覚をもたらすのか。どうすれば責任が生成できるのか。そもそも責任は生成すべきなのか。このあたりをみなさんと議論できればと思う。


【ジャーナルクラブでの発表を終えて】

 発表自体は30分ほどで終わり、90分ディスカッションの時間があったのだが、沈黙になることはほとんどなく、非常に有意義な会となった。話題の中心は責任と帰責性についてであったが、古澤の「罪悪感の二種」・PS的な罪悪感とD的な罪悪感といった概念と接続されたのは蒙を啓かれる思いであった。

 「免責されることで責任が生じる」というテーゼについても議論が交わされた。テーゼどおり、自助グループなどそうした場が用意されることで責任を感じることが可能になる人がいることも事実だが、そもそもそこに乗れない人もおり、そこでこそ私たち分析的心理療法家が役に立つのではないか、という整理は、非常に納得のいくものだった。

 全体として、本当に面白かった、というのが感想である。議論につきあってくださった参加者のみなさんに感謝したい。


山崎孝明(こども・思春期メンタルクリニック)

この度NAPI精神分析的間主観性研究グループは、JFPSP自己心理学協会との間で業務提携を行うこととなりました。そのひとつとして、NAPIの企画である「ジャーナルクラブ」と、JFPSPの企画である精神分析講座動画配信サービス「アナリスト」を相互に連携し、この分野に関心のあるみなさまにより密度の高い情報を提供して参ります。

この先は「ジャーナルクラブの記事」と関連の深い「アナリストの動画」を相互に関連付けるなどして、より深い学びを得ることができるよう努めて参ります。




【今回取り上げる著書】

『解釈を越えて-サイコセラピーにおける治療的変化プロセス-』(2011年)

第1章:精神分析的治療における非解釈メカニズム:

解釈を越えた何か,第2章:関係性をめぐる暗黙の知

著者:ボストン変化プロセス研究グループ


【本書を選んだ理由】

 この著作が出版されたとき、発表者はその題名に強く惹きつけられたのを記憶している。精神分析的な心理療法において治療者と患者に変化が生じる際、いったい何が起きているのかという秘密に触れられているのではないかと感じたからだった。出版の前後で開かれた研修に加え、その後も幾度か手にして内容を追うも、発表者には自身の体験と重ねながら本書を把握するのが難しく、記述を体験的に理解することができなかった。それには幾つかの理由が、それなりにあったと思う。ところがしばらくして臨床事例と向き合うなかで、発表者は患者との関係変化を実感する機会を得た。そこで着目したのは、治療関係のなかで治療者に湧く「驚き」だった。発表者が捉えた「驚き」とは、治療関係において治療者が想定することのできない事態に湧く情緒である。

   この体験をとおして、治療関係の変化を改めてとらえ直そうと試みたところ、この著作のことを思い出した。本書では、この「驚き」が積極的に取り上げられた記述はないが、治療者に湧く「驚き」という視座から再読すると、これまでとらえ損ねていた意義を拾うことができるかもしれないと考えて本書を選んだ。


【本書の概要】

 治療プロセスにおける変化を、ボストン・グループ(以下BG)は次の主要なタームで説明する。それは、「進んでゆく」、「現在のモーメント」、「今のモーメント」、「出会いのモーメント」、「オープン・スペース」などである。これらは、乳幼児発達研究や認知科学そしてダイナミックシステム理論などの科学的概念を用いて構成されたもので、治療プロセスのローカルな局面を示している。

 「進んでゆく」は、治療プロセスがゴールへと向かう時間軸の筋を表しており、当たり前の順次つつがなく進む局面として「現在のモーメント」が連なる。そして突然、主観的・情動的に“火がぽっと灯った感じ”で人を現在にどっぷり引き入れるような“(闘牛の)とどめの一突きの瞬間”、主観的に非常に濃い「今のモーメント」に入る。それまで当たり前だった周りを取り巻く環境は「馴染みがなく」、「予想外」なものとなる。その局面が互いにキャッチされて実現されたのが、「出会いのモーメント」である。これは両者にとってユニークであるが、その跡に「オープン・スペース」を残す。このスペースで、間主観的環境の変化が新たな均衡を生み出す。これにて患者の“関係性をめぐる暗黙の知”は、当たり前という拘束から自由になるという。


【発表者の感想】

 BGの主張には、これまでにいくつか疑問が向けられている。それは客観主義的な認知科学ベースなのかという点、そして表現される関係性に両者のパーソナルな濃密さや特異性が欠けているという点などである。発表者が本書に惹かれながらも、どこか自らの実感と重ねられず、内容を理解できなかった理由はここにあると思う。

 発表者が着目している治療者の「驚き」を視座として考えてみる。治療者が患者に「驚く」瞬間、それは主観的に非常に濃い感覚であり、「今のモーメント」に近いと思われた。それが両者に拾われるタイミングで、それは「出会いのモーメント」となるだろう。しかし「驚き」は、主観的に濃いにもかかわらず治療者にとって自らの主体が、まるでもっていかれるような体験である。そこでは、驚いた私をじんわりとは味わえないため、表現に実感が乏しくなってしまう。

 ここで、BGに向けられる疑問について再考したい。客観主義的でパーソナルな濃密さが欠けているという指摘に、BGはこう反論する。関係性をめぐる暗黙の知は「ごくごくパーソナル」であり、これを学問分野として留めるために精神分析以外の非線形ダイナミックシステム理論や認知科学などのアイデアと対話を続ける必要があるという。ただし発表者にはBGの回答がしっくりしない。特に他領域との対話継続の必要性は確かにそうだとしても、本疑問に答える水準がずれているように思う。

 そこで、BGがそれでも客観主義的な視座を維持する点について、積極的な意味で捉え直すことはできないだろうか。それは、我々が主体を実感できない「体験」を描く時、どうしても客観的な表現になってしまう側面があるのではないかということである。治療者でありつつも、患者の体験世界に近づいた所で見える情景、これがむしろ治療者に生じるリアルな体験世界なのかもしれない。つまり、BGが「ごくごくパーソナル」と述べながらもそこに客観的な表現が残ることにこそ、もしかすると当人に近しい体験が含まれているのではないかと考えた。――「あなたは達観しているわね…」と対話の相手から声を掛けられ、言われた当人が複雑な気持ちを抱く場面を想像してみる。声を掛けられた当人は、ただ実感した体験をそのまま口にしている場合があるかもしれないと思った。


牧野高壮(かんわ心療クリニック/北海道科学大学)


【今回取り上げる著書】

『精神分析の諸相 多様性の臨床に向かって』(2019年)

第7章 治療者の主観性について

著者:吾妻 壮


【本文献を選んだ理由】

 本書は、今日の精神分析のあり方について様々な観点から検討することを目的とされ書かれている。特に、米国の精神分析の現在について紹介されており、そこから今後の臨床への広がりについて述べられている。3部構成であり、第1部「精神分析理論の新しい地平」には、理論的な論考が集められている。第1部の中では、発表者は特に「逆転移論」の歴史的な論考(フロイトから始まり12本の論文が紹介されている)に興味を持った。逆転移概念の変遷については今回取り上げるテーマと深くかかわるため、当日の発表では触れたいと思う。第2部「臨床的ディスカッション」ではスティーブンミッチェルの症例を通して、さらに筆者の症例も紹介されつつ、精神分析技法の多様性の実際について論じられている。第3部は「米国における精神分析の訓練」である。

 この度、発表者は第2部の中から、「治療者の主観性」という章を選んだ。ジャーナルクラブでの発表は今回で3回目であるが、これまでの2回ともに、(意識はしていなかったが)治療者の自己開示、主観性についてのテーマを選んでいた。今回も興味をそそられて選んだ章がまたしても同様のテーマであり、ここ数年の自分のテーマになっているのだろうと思いつつ、みなさんにとっての「治療者の主観性」についていろいろ対話できればと思う。


【文献の内容】

 歴史的には、分析家の主観的経験は、分析プロセスの阻害物とされてきた。しかし、ハイマンやウィニコットらによる逆転移に関する知見から、分析家の主観的経験が患者の内的世界を反映し、分析的に重要な情報をもたらすことが広く認知されるようになった。とはいえ、逆転移は、分析家の主観的経験のうちの一部にすぎず、分析家の主観性のうち「逆転移に基づく反応性」の成分について注目されつつあっても、「非反応性」の主観性については阻害物としかみなされなかった。しかしそもそも、分析家の主観性は明確に分離できるものなのだろうか。

 筆者は、臨床ヴィネットを提示し、治療者と患者が「互いに相手の反応が読めずに困っているという転移-逆転移状況」に陥った場面について、治療者の考えや感情について詳細に述べている。筆者は、自己開示を行うことで、転移-逆転移に飲み込まれることなく異なる経験を作り出すことを試みた。この自己開示は、反応性の逆転移として考えればよいのだろうか。筆者は「治療者の主観的経験が、反応性のものなのか、それとも治療者由来のものなのかを問わずに、生起している状況が治療者と患者の関係のあり方そのものを表していると考え、その中に踏みとどまることが重要であろう」と述べている。


【発表者の感想】

 逆転移論の歴史的論考については、発表者は2013年に「逆転移概念の変遷について」というテーマのセミナーで筆者が講師をされた講義を受けていた。そのときには、フロイトから始まる歴史的変遷について論文が紹介され、その情報量の多さと詳細さ、そして講師のなめらかな語りに圧倒された(半分以上は理解できずにいたような記憶がある)。今回、本書を読むと、いくつか筆者の事例が紹介されており、そこには、セラピストがどのように考え、思い、解釈するかしまいかと思い悩む過程がつづられていた。セミナーでの講師の顔とは全く別であり、セラピストの苦悩や葛藤がとても人間臭く、一人の人間としてクライエントに真正面から関わるセラピスト像を垣間見ることができた。今回選んだ章での臨床ヴィネットは、まさにそのようなセラピスト像が感じられるものであった。今回の発表では、自分のケースを思い浮かべつつ、セラピストとしての自分を振り返りつつ、みなさんと一緒に「治療者の主観性」について考えてみたい。


榮阪順子(三原病院)

【今回取り上げる論文】

アカデミズムと当事者ポジション

著者:上野千鶴子(2018)

『臨床心理学』増刊11 pp.112-118.


【本論文を選んだ理由】

  べてぶくろの一件でいっときの勢いは失ってしまったが、当事者研究という枠組みは一世を風靡した。それだけでなく、「専門家」としての私たちの臨床を根本的に考え直すような問いをつきつけていたと思うが、あまりそれについての応答は見られない。私自身も悩んでいるので、みなさんと議論できればと思い、2017-19の3年連続で当事者研究の特集を組んだ『臨床心理学』の増刊号を見直してみた。はじめは信田さよ子にしようかと思ったのだが、よりメタレベルの問題を扱っている本論文を今回取り上げることとした。


【文献の内容】

 スピヴァクは「ポストコロニアリズムは強姦から生まれた子ども」と述べたが、異文化接触acculturationは圧倒的なヨーロッパの優位を背景に、権力の非対称を前提にした選択の余地のない強要であった。ただ、どんなに呪われた出生でも、そこには新しい知と文化が成立する。その新しい文化は、原理的に観察者が立ち会わない場面でしか見ることができない。「権力者は、下位者が自分のいないところでどんなふるまいをするかを、ついに知ることがない」のだ。ポスコロ・カルスタが、西欧の自意識(無意識)を露見させた結果、「人類学者はしだいに書けなくなった」。こうなると、良心的な人類学者の中から現地化するgoing nativeひとがあらわれる。「そうなれば人類学者はもはや研究者ではなく、社会運動家か生活者となる」(臨床心理学会の道)。他方、当事者自身が自らの社会や文化を研究する手助けをするひとも現れた。これが現地人人類学者 native anthropologistである。現地人人類学者は、宗主国で教育を受けた植民地知識人と同じ位置に立つ。つまり、宗主国の言語で、宗主国国民に理解可能な話法で、自らの属する集団を「代表・代弁」しなければならなくなる。植民地エリートに宗主国の教育を与えるのは、彼らを帝国主義的支配の有能な代理人に仕立て上げるだけでなく、現地人文化の無難な翻訳者・代弁者にするためでもある。人類学者の現地化か、現地人の植民地エリート化か。この二者択一のあいだに陰路はないのか?ポスコロはここに解を与えた。スピヴァクの言う、「敵の武器をとって闘う」戦略である。フーコーによれば、知は権力であり、「状況の定義権」こそ権力の行使にほかならない。そうやってマジョリティとマイノリティの関係は変わっていく。女性学・ジェンダー研究を例にとれば、ジェンダーやセクシュアリティ、セクシュアル・ハラスメント、ドメスティック・ヴァイオレンス、家父長制、ミソジニーなどなどの新しい概念を、既存の言語のなかに次々と付け加えていった。

 女性学はアカデミアの外で民間学として成立し、やがてアカデミアのなかに参入して市民権を得ていった。女性学の「制度化」は、女性学みずからが求めたものだった。当事者研究はどの方向に進むのかの岐路にある。アカデミアの外に立てば、アカデミズムを揺るがすことはできず、またアカデミズムによる領有を許すことになる。反対にアカデミアの内に参入すれば、「ミイラ取りがミイラになる」リスクが待ち受けている。アカデミアにおける当事者ポジションとは、その両極の狭い隙路をたどるようなものなのだ。

註)

 現代においては学問の自己言及性/再帰性が前提となっている。その前提に立てば、「その研究は主観的だ」というのはしばしば「偏った」「歪んだ」「信用ならない」という意味で使われるが、「信用ならない」研究は、たんにその研究が二流であるだけのことであり、「主観的」であることと同義ではない。研究に主観的な研究と客観的な研究があるわけではない。たんに「正確な(correct)」研究、「妥当な(valid)」研究と、そうでない研究があるだけである。

 話は「女性学」に移る。女性学が登場したとき、女が女を研究対象にすることに対する強い抵抗があった。女が女を研究すれば、「主観的」であり、したがってそれは「学問でない」と言われたからだ。上野がこの分野を牽引してきたことはみなさんもご存じだろう。上野は女性学を「女の、女による、女のための学問研究」(井上輝子)と、男性学を「フェミニズムを通過したあとの男性の自己省察の学問」と定義することとなる。


【発表者の感想】

 「専門家」として私たちはどうふるまうべきだろうか。現地化する以外に解はないのか。分析の文脈で言えばエディプスの問題であるし、ふつうの言葉で言えば権威とのつきあい方、権威のなり方、のような話だと思う。心理臨床もアカデミアの中に位置づけるのか、在野に位置づけるのか、ずっと葛藤を抱えてきているように思う。私は在野だが、アカデミアにいらっしゃる方も多いNAPIの方々と、そのあたりを話せればと思う。


山崎孝明(子ども・思春期メンタルクリニック)