【今回取り上げる論文】
The McDonaldization of psychotherapy:
Processed foods, processed therapies, and economic class. (2016)
著者:David M. Goodman 出典: Theory & Psychology. Vol.26(1), 71-95.
【本論文を選んだ理由】
David M. Goodmanは、「精神分析の倫理的転回」(Goodman & Severson, 2016)のムーヴメントをけん引し、「The Psychology and the Other」という学会を立ち上げた哲学者・精神分析家である。彼はその学会を、精神分析、哲学、神学、経済学、環境学、生物学、法学、フェミニズム、医学などの学際的議論の場とした。そこに示されるように、彼の持ち味は、現代のさまざまな問題をintersectionality(交差性)の視座から読み解くところにある。近年、ジェンダー論やマイノリティ論の中で、交差性をよく耳にする。彼は、そうしたテーマにとどまらず、世の中のすべてのテーマにこうした目を向ける。本論文は、臨床家に身近な治療的オリエンテーションのテーマを、そうした視座から読み解くような、他には見ない豊かな議論である。
【論文の概要】
物語は、「実証的に支持された療法(EST)」への問題意識から始まる。Goodmanが注目するのは、測定方法やエビデンスに関する疑問ではない。よくあるそうしたEST批判論は、その批判者自身がすでにESTの視座に組み込まれたものだからである。彼が注目するのは、治療論の言語可能性の違いや、マーティングの階級差、治療言語の利用可能性である。
背景にあるのは、保険会社の経営戦略である。米国市民は、保険によって利用できる心理療法の範囲が変わる。HMOなど安価な保険の契約者が利用できる心理療法は、手続きの決まった短期で低料金のものに限定される。PPOなど高額の保険の契約者が利用可能な心理療法の選択肢は多い。私費で払う経済力があれば選択肢は無制限である。保険会社の経営戦略のもと、臨床心理業界は、短期の手続きの明確な心理療法を増やした。保険の種類に関係なく利用されるからである。それを科学的にブランド化したのがESTである。
Goodmanは、その状況を、米国の臨床心理業界のマクドナルド化と呼ぶ。マクドナルド化とは、「効率性、事前指示可能性、計算可能性、人間以外の技術による代替、不確実性に対する制御を重視する」(Ritzer, 2018)システムの拡大を意味する。彼は、短期の、手続きの明確な、ターゲットを絞った、効果測定の簡便な心理療法が増える状況をそう呼んだ。
1. 言語体系の違い
Goodmanが注目するのは、治療論の解釈学的言語体系の違いである。彼にとって、「治療的オリエンテーションとは、人間が自分の苦しみ、意味、アイデンティティ、癒しを理解するために持っているさまざまな言語」(p.80)である。「エリスの合理的動機づけ行動療法(REBT)とクラインの対象関係論は、まったく異なるパラダイムとイデオロギーから経験を概念化し、言語化している。それらを有効性の軸に位置づけることは、それぞれの意味の伝統にとって異質な認識論であり、両者にとって異質な別の認識論が、独自の価値基準に従って両者の価値を裁定していることを明確に示す」(p.80)。互いに協約不可能(Khun, 2000)なそれらを、同じ解釈学的言語体系で評価することを喜ぶ臨床心理業界は、多元主義を重視するとのスローガンを掲げながら、自らの言語体系の多様性を貧弱なものにしている。
2. マーケティングの階級差
経済格差が激しい米国では、ファーストフード店が密集するのは貧困地域である。富裕層の多い地域には、いわゆるチェーン店は少なく、個性豊かなレストランが並ぶ。その違いはメニューと食材の多様性である。経済格差は、かつてのような「食べられる人」対「食べられない人」の分断ではない。それは、食べ物の種類と選択の幅が「広い人」対「狭い人」の分断である。摂取できる栄養素の種類が「多い人」と「少ない人」の違いである。インスタントラーメンは、世界の貧困問題に大きな効果を生んだ。それによって「食べられない人」は激減したが、「それしか食べられない貧困層」を生み出した。Goodmanは、その違いと貧困地域と富裕地域の平均寿命の違いが一致すると述べる。
3. 治療言語の利用可能性
Goodmanは心理療法も同様だと考える。「みんなが気軽に利用できるようになった」としても、利用できる心理療法は同じではない。貧困層が利用できるのは、短期の、手続きの決まった心理療法である。富裕層は、長期的で、手続きが柔軟な心理療法を利用するできる。問題なのは語彙である。手続きの決まった短期の心理療法は語彙が乏しい。患者は、治療者から決まった課題や指示を与えられ、それに従い、その範囲で結果を出すように要求されることが多いからだ。長期的で、手続きが柔軟な心理療法は、語彙が豊かである。患者は自分の体験を様々な言葉で表現し、人生の意味を探り、自分の世界を創るように促されるからである。
Goodmanにとって、こうした三つのポイントが集約するのは、社会構造である。彼は、ESTを推進する人たちは、善意でそれを推進していると強調する。彼らは、患者がよくかなったかどうかを測定するために、言葉を用意する。彼らも、患者も、その言葉が心の状態の良し悪しを評価するのと信じて疑わない。しかし、言葉は暴走する。その言葉によって私たちの文化が作られる。臨床心理専門家たち自体が、すでに製薬学者の定義する病名、保険会社の導く治療論の言語体験の中だけで世の中を判断していることに気がついていない。これはさらに、経済格差と教育格差を生み出す。貧困層が心をケアしようとしても選択肢は狭く、自己を表現する言葉は乏しくなる。富裕層の選択肢は広く、豊かな言葉で自己を探求する機会が与えられる。その格差は、学歴や職業の差となって表れる。やがてそれは、一方のコミュニティをより貧困に、一方をより富裕にしていく。私たちは、私たち自身の言葉を貧困にしつつ、貧困層と富裕層の格差を助長することに一役かっていることを理解するべきだということである。それに組み込まれているのも、それを作っているのも臨床心理専門家である。
【発表者の感想】
日本はどうだろうかと考えてしまった。臨床心理士制度ができる前、日本のメンタルヘルスの中心は精神科医療における比較的重度の精神障害を対象としたものだった。今や、多くの人が心理療法やカウンセリングを利用するようになった。一般の患者が、認知行動療法とか、EMDRとか、自ら治療法を指定して初回面接に来ることも珍しくなくなった。「メンタルヘルスがないがしろにされている。欧米で広がる心理療法が日本で普及していないのは異常だ」と、臨床心理業界は訴えてきた。今、私たちは「みんなが心理療法を気軽に利用できるようになったことは良いことだ」と評価する。誰もそれを疑問視しない。
日本の心理療法の値段と質の格差も決して狭くはない。日本の相対的格差社会は、心理療法の利用範囲の格差も生み出していないだろうか。臨床心理士が広まる30年前、日本人は「気が重い」「だるい」「寂寥感」「わびしい」と体験した自己状態を、「うつ病」とは呼ばなかった。Watters(2010)が例に挙げた製薬学者戦略に協力した精神医学者、臨床心理学者は、そうした言葉で伝統的な自己を奪った。自分たちがデザインした育児書は、私たち自身や、私たちの育児をデザインする。防衛や失策行為、転移などの概念や精神医学的診断基準が世の中に広まらなかったとしたら、人々は自分の言動や心をもっと違う形で捉えていたかもしれない。私たちの専門的実践は、問題を抱えた人に対する支援だが、その実践を通して将来の人の心の問題を作り出していないだろうか(富樫, 2024)。専門家は、専門的実践を通して作り上げる将来の日本人の心の状態への影響をどのように考えたらよいのかと、あらためて考えてしまった。
【文献】
Goodman, D. M. & Severson, E. R. (2016). Introduction: ethics as first psychology. In D. M. Goodman & E.R. Severson (eds.), The Ethical Turn: Otherness and Subjectivity in Contemporary Psychoanalysis (pp. 1-18). New York: Routledge.
Kuhn, T. S. (2000). The Road Since Structure. America: University of Chicago Press.
Ritzer, G. (2018). The McDonaldization of society: Into the digital age. Sage publications.
富樫公一(2024).応答する主体としての臨床心理学.『臨床心理実践サバイバルガイド 臨床心理学』, 増刊16, 97-103.
Watters, E.(2010). Crazy like us: The globalization of the American psyche. Simon and Schuster.
富樫公一(甲南大学)