解釈を越えて-サイコセラピーにおける治療的変化プロセス-
【今回取り上げる著書】
『解釈を越えて-サイコセラピーにおける治療的変化プロセス-』(2011年)
第1章:精神分析的治療における非解釈メカニズム:
解釈を越えた何か,第2章:関係性をめぐる暗黙の知
著者:ボストン変化プロセス研究グループ
【本書を選んだ理由】
この著作が出版されたとき、発表者はその題名に強く惹きつけられたのを記憶している。精神分析的な心理療法において治療者と患者に変化が生じる際、いったい何が起きているのかという秘密に触れられているのではないかと感じたからだった。出版の前後で開かれた研修に加え、その後も幾度か手にして内容を追うも、発表者には自身の体験と重ねながら本書を把握するのが難しく、記述を体験的に理解することができなかった。それには幾つかの理由が、それなりにあったと思う。ところがしばらくして臨床事例と向き合うなかで、発表者は患者との関係変化を実感する機会を得た。そこで着目したのは、治療関係のなかで治療者に湧く「驚き」だった。発表者が捉えた「驚き」とは、治療関係において治療者が想定することのできない事態に湧く情緒である。
この体験をとおして、治療関係の変化を改めてとらえ直そうと試みたところ、この著作のことを思い出した。本書では、この「驚き」が積極的に取り上げられた記述はないが、治療者に湧く「驚き」という視座から再読すると、これまでとらえ損ねていた意義を拾うことができるかもしれないと考えて本書を選んだ。
【本書の概要】
治療プロセスにおける変化を、ボストン・グループ(以下BG)は次の主要なタームで説明する。それは、「進んでゆく」、「現在のモーメント」、「今のモーメント」、「出会いのモーメント」、「オープン・スペース」などである。これらは、乳幼児発達研究や認知科学そしてダイナミックシステム理論などの科学的概念を用いて構成されたもので、治療プロセスのローカルな局面を示している。
「進んでゆく」は、治療プロセスがゴールへと向かう時間軸の筋を表しており、当たり前の順次つつがなく進む局面として「現在のモーメント」が連なる。そして突然、主観的・情動的に“火がぽっと灯った感じ”で人を現在にどっぷり引き入れるような“(闘牛の)とどめの一突きの瞬間”、主観的に非常に濃い「今のモーメント」に入る。それまで当たり前だった周りを取り巻く環境は「馴染みがなく」、「予想外」なものとなる。その局面が互いにキャッチされて実現されたのが、「出会いのモーメント」である。これは両者にとってユニークであるが、その跡に「オープン・スペース」を残す。このスペースで、間主観的環境の変化が新たな均衡を生み出す。これにて患者の“関係性をめぐる暗黙の知”は、当たり前という拘束から自由になるという。
【発表者の感想】
BGの主張には、これまでにいくつか疑問が向けられている。それは客観主義的な認知科学ベースなのかという点、そして表現される関係性に両者のパーソナルな濃密さや特異性が欠けているという点などである。発表者が本書に惹かれながらも、どこか自らの実感と重ねられず、内容を理解できなかった理由はここにあると思う。
発表者が着目している治療者の「驚き」を視座として考えてみる。治療者が患者に「驚く」瞬間、それは主観的に非常に濃い感覚であり、「今のモーメント」に近いと思われた。それが両者に拾われるタイミングで、それは「出会いのモーメント」となるだろう。しかし「驚き」は、主観的に濃いにもかかわらず治療者にとって自らの主体が、まるでもっていかれるような体験である。そこでは、驚いた私をじんわりとは味わえないため、表現に実感が乏しくなってしまう。
ここで、BGに向けられる疑問について再考したい。客観主義的でパーソナルな濃密さが欠けているという指摘に、BGはこう反論する。関係性をめぐる暗黙の知は「ごくごくパーソナル」であり、これを学問分野として留めるために精神分析以外の非線形ダイナミックシステム理論や認知科学などのアイデアと対話を続ける必要があるという。ただし発表者にはBGの回答がしっくりしない。特に他領域との対話継続の必要性は確かにそうだとしても、本疑問に答える水準がずれているように思う。
そこで、BGがそれでも客観主義的な視座を維持する点について、積極的な意味で捉え直すことはできないだろうか。それは、我々が主体を実感できない「体験」を描く時、どうしても客観的な表現になってしまう側面があるのではないかということである。治療者でありつつも、患者の体験世界に近づいた所で見える情景、これがむしろ治療者に生じるリアルな体験世界なのかもしれない。つまり、BGが「ごくごくパーソナル」と述べながらもそこに客観的な表現が残ることにこそ、もしかすると当人に近しい体験が含まれているのではないかと考えた。――「あなたは達観しているわね…」と対話の相手から声を掛けられ、言われた当人が複雑な気持ちを抱く場面を想像してみる。声を掛けられた当人は、ただ実感した体験をそのまま口にしている場合があるかもしれないと思った。
牧野高壮(かんわ心療クリニック/北海道科学大学)
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