治療者の主観性について


【今回取り上げる著書】

『精神分析の諸相 多様性の臨床に向かって』(2019年)

第7章 治療者の主観性について

著者:吾妻 壮


【本文献を選んだ理由】

 本書は、今日の精神分析のあり方について様々な観点から検討することを目的とされ書かれている。特に、米国の精神分析の現在について紹介されており、そこから今後の臨床への広がりについて述べられている。3部構成であり、第1部「精神分析理論の新しい地平」には、理論的な論考が集められている。第1部の中では、発表者は特に「逆転移論」の歴史的な論考(フロイトから始まり12本の論文が紹介されている)に興味を持った。逆転移概念の変遷については今回取り上げるテーマと深くかかわるため、当日の発表では触れたいと思う。第2部「臨床的ディスカッション」ではスティーブンミッチェルの症例を通して、さらに筆者の症例も紹介されつつ、精神分析技法の多様性の実際について論じられている。第3部は「米国における精神分析の訓練」である。

 この度、発表者は第2部の中から、「治療者の主観性」という章を選んだ。ジャーナルクラブでの発表は今回で3回目であるが、これまでの2回ともに、(意識はしていなかったが)治療者の自己開示、主観性についてのテーマを選んでいた。今回も興味をそそられて選んだ章がまたしても同様のテーマであり、ここ数年の自分のテーマになっているのだろうと思いつつ、みなさんにとっての「治療者の主観性」についていろいろ対話できればと思う。


【文献の内容】

 歴史的には、分析家の主観的経験は、分析プロセスの阻害物とされてきた。しかし、ハイマンやウィニコットらによる逆転移に関する知見から、分析家の主観的経験が患者の内的世界を反映し、分析的に重要な情報をもたらすことが広く認知されるようになった。とはいえ、逆転移は、分析家の主観的経験のうちの一部にすぎず、分析家の主観性のうち「逆転移に基づく反応性」の成分について注目されつつあっても、「非反応性」の主観性については阻害物としかみなされなかった。しかしそもそも、分析家の主観性は明確に分離できるものなのだろうか。

 筆者は、臨床ヴィネットを提示し、治療者と患者が「互いに相手の反応が読めずに困っているという転移-逆転移状況」に陥った場面について、治療者の考えや感情について詳細に述べている。筆者は、自己開示を行うことで、転移-逆転移に飲み込まれることなく異なる経験を作り出すことを試みた。この自己開示は、反応性の逆転移として考えればよいのだろうか。筆者は「治療者の主観的経験が、反応性のものなのか、それとも治療者由来のものなのかを問わずに、生起している状況が治療者と患者の関係のあり方そのものを表していると考え、その中に踏みとどまることが重要であろう」と述べている。


【発表者の感想】

 逆転移論の歴史的論考については、発表者は2013年に「逆転移概念の変遷について」というテーマのセミナーで筆者が講師をされた講義を受けていた。そのときには、フロイトから始まる歴史的変遷について論文が紹介され、その情報量の多さと詳細さ、そして講師のなめらかな語りに圧倒された(半分以上は理解できずにいたような記憶がある)。今回、本書を読むと、いくつか筆者の事例が紹介されており、そこには、セラピストがどのように考え、思い、解釈するかしまいかと思い悩む過程がつづられていた。セミナーでの講師の顔とは全く別であり、セラピストの苦悩や葛藤がとても人間臭く、一人の人間としてクライエントに真正面から関わるセラピスト像を垣間見ることができた。今回選んだ章での臨床ヴィネットは、まさにそのようなセラピスト像が感じられるものであった。今回の発表では、自分のケースを思い浮かべつつ、セラピストとしての自分を振り返りつつ、みなさんと一緒に「治療者の主観性」について考えてみたい。


榮阪順子(三原病院)

NAPI's Journal Club Blog

NAPI精神分析的間主観性研究グループ・ジャーナルクラブのブログです。認定会員が定期的に論文や書籍を選び、その内容についてレポートしたものの一部をここで紹介していきます。