Theoretical and Clinical Perspectives on Narrative in Psychoanalysis

【今回取り上げる書籍】

「Theoretical and Clinical Perspectives on Narrative in Psychoanalysis 」(2021)

著 者:Joye Weisel-Barth

出版社:Routledge


【本書を選んだ理由】

 精神分析は語りを扱う。治療者は患者の語りに耳を傾け、自らの実践を振り返ってそれを語る。私自身も、自分の臨床実践をさまざまな機会に語ってきた。それは個人的な語りの場合もあれば、公の場での症例発表や論文による語りの場合もあった。それは、誰の語りなのだろうか。私たちが臨床実践を語るとき、多くの場合、その場に患者はいない。語り手はほとんどの場合、患者の語りを聞いた治療者である。

 精神分析の領域でなくとも、構成主義的な視点から検討された語りについての考察は、人間の経験が物語づくりを通して組織化されることに注目する。患者や治療者といった個人の語りについて考えるならば、その通りだろう。しかし精神分析の臨床実践は、語られる者と語りを聞く者とのやり取りであり、その語りは間主観的なプロセスとして浮かびあがる。その二人は、それぞれの歴史的、社会的、文化的状況に組み込まれている。そのようなやり取りはどのように記述されるのだろうか。さらに、その間主観的プロセスは治療者によって治療者の経験として組織される。それは、どのように記述されるのだろうか。そのような疑問持っていた私は、本書で語りを探究する同僚でもあり友人でもあるJoyeの語りに耳を傾けた。その意味では、私は確かに、本書を精神分析における語りの理論を探究する一般的な書籍の一つであると思って読んだ。

 しかし私は、読み進めていくにつれて、本書がそのような議論をはるかに超えたものであることを知った。ほとんどの章が彼女の自伝的語りで構成された本書は、著者自身が一人の人間として歴史、文化、社会的状況の中で生きていた軌跡を述べるものだった。さらにそこには、一般的にこうあるべきだと考えられている精神分析や精神分析的心理療法の治療的手続きをはるかに超えたやり取りが語られていた。彼女はそれを、自分の語りとして実にオープンに語っていた。私は本書を紹介することで、NAPIの同僚たちと、私たち治療者が患者の語りをどのように語るのかについて議論し、さらに、私たちの日常的な臨床の姿は誰によってどのように語られるのかを考えたいと思って本書を選んだ。


【本書の概要】 

 Joyeは、序文と序論ⅠとⅡで、哲学、精神分析、神経科学など、物語に関する文献を概観し、人間がいかに物語を持って生まれ、物語を作り、物語を語ることを発達させ、物語によって人生を構成しているかを説明する。彼女は、物語におけるFredの実証主義的視点と、SpenceやShaefer、Brunerなどが提供する構成主義的視点を検討し、人間の経験が物語づくりを通して組織化されることを論じる。そして彼女は、「多くの精神分析理論は、時間の経過とともに、還元的で閉鎖的になってきた。現代の多くの分析家は、理解を広げるために、そして……異なる視点を引き出すために、理論のストーリーを混ぜ合わせることを選んだ......しかし、異なるモデルや言語ゲームからアイデアを借りてきて融合させることで、時に私たちはバベルの塔を構築していることがあり、その結果、臨床の物語はしばしば内的一貫性を欠いている」と述べる。

 第1章でJoyeは、彼女が精神分析トレーニングを受けていた頃のコントロールケースの一つであるLalaとの作業について述べる。彼女は、学会でそのケースを発表したときのBob StolorowとLewis Aronの議論やコメントが同意できるものではなかったと述べる。彼らの議論は、権威者的・男性的な視座から語りであり、Lalaと彼女が紡いできた語りとは異なるジェンダー的文脈からのものだと批判する。Joyeは、このようにして、患者との出会いにまつわる自身の語りをすべての章で続ける。第2章は、精神科の初期実習で出会ったほとんど口を開かない患者Sharonとの関わりである。Joyeは、中立性を守ることを求めるスーパーヴァイザーの意見に従わずに、Shaoronに自分自身の話をした。第3章でEnvyに注目するJoyeは、患者のEnvyではなく、自分自身のそれについて語る。彼女は、患者である芸術家にEnviousになり、最終的にアーティストとしての活動を再開する自分の姿を語る。第4章と第5章、第6章では、臨床家の理論的語りが、そもそも非線形で多層的、予測不可能な臨床プロセスを記述するには向いてないことが論じられる。第7章以降、ジョイの語り口はそれまで以上に正直なものなっていく。第7章では、自分を撃ちに来た重度のうつ病患者Susanとの作業、第8章では、母親と妹を殺してしまったMark、第9章では、トラウマと混乱から海に身を投げたMayaのケースについて語られる。どの章でも、中心的に語られているのはJoyeの心情である。第10章でJoyeはLaraのケースに戻る。この章では、分析パートナー間の情熱的で親密な愛情描かれている。ある日、路上で捨てられた双子の子犬を拾ったLalaは、子犬たちをそのままセッションに連れてくる。彼女はJoyeに引き取ってくれる人がいたら紹介してほしいと述べるが、Joyeはそのうちの一頭を引き取った。しかし、そのおかげでJoyeの家に前からいたDukuという犬が攻撃的になってしまう。人を襲うようになったDukuは、安楽死させられる。偶然同じ獣医のところに通っていたLalaはたまたまこの話を知り、Joyeに対して「あなたはひどい人だ」と詰め寄る。この話を通してJoyeは、境界侵犯をした自分の責任と二人の愛について語る。最終章はKatherineの話である。患者は、自殺未遂を繰り返すいわゆる重いケースである。Joyeに強いコミットメントとサポートを求め続けた患者は、最終的にいなくなる。Joyeは彼女がいなくなってほっとしたことを正直に語るが、それでも、彼女のような人がまた来れば自分は喜んで仕事をするだろうと述べる。


【発表者の感想】

序章を読み終えて本章を読み始めると、章が進むにつれて「語り」に関する直接的な議論が少なくなっていくことに気がつく。その代わりに、Joye自身が体験した患者との壮絶な精神分析的作業が語られていく。私は、「語り」はどこへ行ったのだろうと思いながら読んでいた。実際、終盤の彼女の文章には「語り」という言葉はほとんど出てこない。私は、Joyeはまた自分のことばかり語っていると思った。しかし最終的に、私は自分が「語り」の間主観的意味を本当には理解していなかったことを知った。私が期待していたのは、「語りについての一般理論の考察」や「患者の語りについて解説」あるいは、「語りの間主観的プロセスの探究」などであった。それはいずれも、語られたものや語りという現象を、外側から探究し、解明しようとするものである。私は、語りの間主観的プロセスは、語り手も、語り手が語る人たちも、読み手もその中に組み込まれた中で進むもので、外側から見れるものではないと理解した。

私たちは、学会などで臨床事例をまことしやかに「語る」が、それはどこまで私たちの語りなのだろうか。それが、患者の真実の姿を語ったものではないことは明らかである。臨床事例を適切に解説したものではないことも明らかである。だから私は、以前から、臨床家は自分の体験を語っているのであって、患者や治療を語っているのではないと述べてきた。しかし、Joyeの語りを読むと、それが彼女個人の体験を語ったものだけとも言えないと感じられた。むしろ、彼女は精神分析や時代、米国社会という大きな歴史、文化、社会の中で語り手としてとして語らされていると言った方が良いようにも思った。彼女の語りはすべて、彼女の生きてきた歴史、文化、社会の中に浮かび上がったものだからである。 

もう一つ本書は、語りの議論とは別に、本書に率直に書かれた臨床家の態度についても考えさせられた。それは「公式」の臨床的な議論には出てこないが、それに近いことはある程度経験ある治療者ならばやっているようなことである。具体的には、患者の結婚式に出席したり、患者に自分の話を聞かせたり、患者にあなたが妬ましいと伝えてみたり、患者が拾ってきた犬を育てたりなどである。そうした臨床的姿勢についての議論もしてみたいと思う。それは、臨床家の正直さの議論になるだろう。

富樫公一(甲南大学)

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