「意地」の定義をめぐる論考

【今回取り上げる著書】

富樫公一著(2011)

『蒼古的自己愛空想からの脱錯覚プロセス』  第三章「意地」の自己心理学的考察

風間書房,pp59-75.     


【レポート】

 本章は『「意地」の自己心理学的考察―蒼古的自己空想への執着と諦め』(精神分析研究,50(4), pp365-374,2006)を著者(富樫)が加筆修正したものです。概念の定義をどのように提示していけばよいかを学びたいと思い、本章を選びました。 

  この章で著者は、リサーチ・クエスチョン「蒼古的自己愛空想からの脱錯覚に対する心構えを反映する日本語に伴って脱錯覚が進む場合、クライエントの空想世界ではどのようなことが生じているのか」を明らかにするため、「意地」について検討しています。著者は、「意地」は精神分析研究の中で1)恥の感覚の防衛、2)執念深く自滅的な破壊的心性の2点から論じられてきたことを述べ、「意地」の持つ建設的心性にはあまり注目が集まらなかったことについて問題提起していました。そしてこれまでの意地の研究を批判的に検討し、意地が精神分析的心理療法のプロセスで大きな役割を果たした心理療法事例(B)を提示し、自滅性・破壊性は意地の一次的特性ではないことを明らかにしていました。また、「意地」に伴って脱錯覚がなされる場合、クライエントの空想世界においてはどのようなことが生じているかを考察していました。以下は、本章の最終頁からの引用です。 


  1. 意地は「悲劇の人」の葛藤の中で、自己の美的統一性・連続性を維持するための心性であり、それが自滅的・破壊的に見えるのは、意地の中核に破壊性があるからではなく、蒼古的自己愛空想に執着することが許されず、なおそれを諦めきれない状況で自己愛的怒りが表出される場合があるからである。 
  2.  意地が自滅的・破壊的になるか建設的になるかは、蒼古的自己愛空想の「諦め」にかかわる。蒼古的自己愛空想を諦めないための意地は自滅的・破壊的、諦めるための意地は建設的である。
  3. 「意地」は、受動的に体験する脱錯覚を内的に能動化し、脱錯覚に伴う痛みを積極的に予測し、リスクに立ち向かう動機づけとなる。

(P.75) 

  

 Winnicott, D.W.は錯覚と脱錯覚の論考の中で、子どもが急激に錯覚から醒めることは幻滅となり、急激な幻滅体験は心の外傷体験になることを述べています。本章で示された事例Bは「意地」を張って恋愛転移を向けていた治療者から、主体的に自ら距離をとっていました。具体的にはBの申し出によって一時、治療が中断しています。著者はそのBの「意地」を主体的で建設的な心性と捉えていました。

 「意地を張る」「意地っ張り」などと日本語で使われるように、私は「意地」と聞くと、人が素直になれないこと、そのために損をしてしまっていることなどが最初に思い浮かびます。意地を建設的な側面から考えられた論文は珍しく、臨床的にも意義ある視点を提示していたと思いました。「意地」の定義のまとめに至るまで、すっきりと筋が通った秀逸な論文でした。 


池 志保(福岡県立大学 人間社会学部)

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