自己開示に関する理論的、技法的考察
【今回取り上げる著書】
Lewis Aron(1996)
“A Meeting of Minds:Mutuality in Psychoanalysis”
ルイス・アロン
『こころの出会い 精神分析家としての専門的技能を習得する』(監訳 横井公一)
第8章 知ることと知られることについて:自己開示に関する理論的、技法的考察
【本文献を選んだ理由】
本書は、アロンの初めての著作であり、関係精神分析の古典的著作と言われている。二者心理学として包括される関係論的な著作の中でも、本書がテーマにおいているのは、二者間の相互性mutualityである。
今回は、分析者の主観性subjectivityを意図して慎重に開示する介入としての自己開示について書かれている第8章を取り上げる。「意図的に」というところの中には分析者の欲望、葛藤が含まれており、自己開示における分析者側の詳細な記述や自己開示による相互交流についての考察は興味深い。
【文献の内容】
分析者が意図していようがいまいが自分自身について常に表出しているself‐revelationは不可避である。今回、ここで取り上げられているのは「意図的な、慎重な」自己開示self‐disclosureであるが、その境界線はあいまいである。
アロンは自己開示の問題を、相互的な葛藤の文脈の中に置いている。それは、患者と分析者双方にとって他者を知りたいあるいは他者に知られたいという願望、そして自分自身を守り他者から隠れていたいあるいは他者を知ることを避け他者の内的世界との接触を避けたいという欲望に関する葛藤である。伝統的な分析状況では、分析者は他者に知られるのではなく他者を知ると仮定されており、被分析者は他者を知るのではなく他者に知られるものと仮定される。しかし、関係論では患者と分析者の行動のすべてが葛藤的な動機のあいだでの妥協として理解される。
分析者が患者に意図的に何かを表出するときには、患者と分析者の両方に補完的な葛藤が活性化する。分析者自身の葛藤も賦活されるため、あまり意図的な表出をしないようにする分析者もいるだろう。しかし、分析の仕事をうまく行うには、患者によって分析者の性格が大いに曝され探求されることによる不安を、ある程度耐えられるようにしておく必要がある。分析者は、他者を知りたいし知らないでいたい、知られたいし知られるのを避けたいという葛藤する欲望に居心地よくなる必要がある。
【発表者の感想】
自己開示については“なるべくしたくない”という思いが自分の中ではあり、それでも行う(やらざるを得ない)場合には、開示をしたことをクライエントがどう受け取ったのか、どのような感情がわき起こり、どのような空想が生じたのかを丁寧に扱うものであると考えていた。この一連の手続きを言葉にすれば簡単そうではあるが、なかなか自分としてうまくできないという感覚を持っている。そのため、臨床にうまく使えないのなら、なるべく避けたいという考えであった。しかし、アロンは、意図的な自己開示におけるクライエントの葛藤のみならず、分析者側の葛藤にも注目し、「葛藤する欲望に居心地よくなる必要」というのは目から鱗であった。自己開示を“したくない”という私の考えは、他者に知られたいという願望がありながらもそのような願望を持つべきではないという考えと、それらを抱えることが難しく否認(解離?)していたのかとも考えた。また、自己開示によってクライエントにどのような影響があるのか、どう受け取られるのかを考えるというのは、あたかもクライエントのことを第一に考えているようではあるが、それでは分析者側の主観性は排除されており、二者間の相互性には目がいっていなかったのだということに気づいた。相互性とは言っても、実際の分析場面で自分のことも含めて受け止め考えることはなかなか難しいことだと痛感している。
榮阪順子(三原病院)
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