ピアジェと精神分析の交点

【今回取り上げる文献】 

『ピアジェ晩年に語る』J-C.ブランギエ(著)大浜幾久子(訳)国土社、1985 年.


【本文献を選んだ理由】 

 アメリカの精神分析家のなかには、ピアジェ理論(とくに同化と調節)を引用する人たちがいる。たとえば、ストロロウは、転移を同化としてとらえている。 ピアジェは、精神分析に関心をもち、アメリカ精神分析学会で講演した(Piaget,1973)。彼は対話を通して子どもの思考を理解する「臨床法」を開発したが、主たる関心は発生的認識論にあり、人間の一般的な認知的発達を探究し、 個人の情緒は重視しなかった。ピアジェはどうしてあのような理論をつくったのか、彼の人となりと理論との関係を考えるのは興味深い。また、ピアジェと精神分析の交点、互いの影響について考察することは意義があると思える。

 ここで取り上げるのは、ブランギエが晩年のピアジェに数回インタビューを行い、出版した著書である。


【ジャン・ピアジェ(Jean Piaget1896~1980)生い立ちの概略】 

 ピアジェは、スイスのフランス語圏で生まれた。父は歴史学者、母は信仰心のあつい人で、神経症的だったらしい。

 ピアジェはよく勉強し、10 歳で博物館雑誌に論文掲載、博物館長の助手をつとめ、15 歳ころには生物学の専門家として認められた。彼は母が望むキリスト教の教義と生物学が両立しがたいことに気がつき、哲学に関心を持つ。だが、思弁的な哲学より科学的な認識研究をめざし、生物学と哲学(認識論)の橋渡しをする学問として、心理学を選んだ。


【文献の内容】

 『ピアジェ晩年に語る』では、精神分析の話が 2 回登場する、第 8 章「意識化」と、第 11 章「記憶」である。第 8章では、失錯行為、抑圧を話題にし、意識化について研究中であると語る。第 11 章では、自らの体験をもとに記憶は 構成されると論じる。その第 11 章に、ピアジェが分析を受けたという話が出てくる。

 ピアジェは 1921 年、ジュネーヴで、「フロイトの直弟子の一人」で「東ヨーロッパ出身の女性」から、8 カ月間、 毎朝 8 時に分析を受けたと語る。それは「実におもしろかった」が、「分析家が示したおもしろい事実に対し、私は、 分析家が私に押し付けようとした解釈の必然性を感じませんでした。やめたのは彼女の方だったのです」という。「そ れは治療でもないし、私が分析家になろうとしていなかったという意味では、教育分析でもなく、強い意味でのプロパガンダだったからです。つまり、学説の普及のためだったわけで、彼女は、理論を信じ込もうとしない人間のため に、毎日一時間も失う必要はないと思ったのでした」と語る。


【発表者の感想】

 ピアジェは、精神分析に関心をもち、初期には影響を受けたが、別の道を歩んでいった。 ピアジェを分析したのは、かのザビーナ・シュピールラインである。 シュピールラインは、国際精神分析協会の代表としてジュネーヴに派遣されたと思い込んでいたので、若い有望な研究者ピアジェとかかわり、精神分析学説を広めたいという思いもあったかもしれない(参照『ザビーナ・シュピールラインの悲劇』リッヒェベッチャー著、田中訳)。しかしながら、治療でもなく、分析家になろうとしたわけでもないというピアジェの方にも、精神分析を受けてみたいとする何らかの動機があったはずである。ピアジェの分析では母親転移が起きたのではないかとする説もあるようだが、ほんとうのところはわかっていない。


参考文献

Piaget,J.(1973) The Affective Unconscious and the Cognitive Unconscious. Journal of American Psychoanalytic Association,21:249-261.


宍戸靖子(特定非営利活動法人九州大学こころとそだちの相談室)

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