社会的養護における子どもの喪失体験

【今回取り上げるジャーナル】

増沢高(代表)、二村郁美、西岡弥生、中垣真通、村木良孝、岡部由茉、富樫健太郎、富樫真貴子(2020)

『児童虐待に関する文献研究 社会的養護における子どもの喪失体験』

子どもの虹情報研修センター 令和元年度研究報告書.


【本文献を選んだ理由】

 レポーターは、日ごろ児童養護施設に付帯されている相談福祉施設で勤務をしている。本文献では入所する子どもたち全てが「喪失」体験をしていることを指摘し、その概要のみならず「社会や支援者がどのように理解し、対応してきたか、望まれる支援や手当はどのようなものなのか」について記述している。精神分析の文献ではないが、施設入所の子どもたちに関わる者としてここに記述されていることを理解し、また、間主観的な感性をもって向き合うためにもNAPIの先生方と共有したいと考えた。


【文献の内容】

 まず、医療、心理、教育、社会学の分野での「喪失」および「対象喪失」概念について概観する。そのうえで子どもの喪失体験の特徴や、喪失体験をした子どもへのかかわりについてまとめている。

 次章では、社会的養護における子どもの喪失体験について、戦争孤児から現代まで歴史をたどりながら整理されている。2000年に入ると、当事者の語りが強調され、その文献も増えてくる。この中から、「歴史性の喪失と人生史の分断」について項が設けられ、子どもが自己の一貫性、自己肯定感を発展させ支えるものとして、以下のことが挙げられている。「自分が記憶していない自分の過去を、家族的な共同記憶から受け取り、自分自身の記憶として自分の歴史性に織り込んでいく事」である。

 一方で、養護児童では、「自分の覚えていない過去を知り、微かな記憶がある過去のエピソードを共有しうる養育者が生活の場に存在しない。したがって『共同記憶としての過去』の再生が起こらない。それは自己一貫性や自己の歴史性の喪失体験につながる可能性がある」とし、また、「子ども自身の過去の記憶を共有しえない他者との共同生活に投げ込まれる時、自己危機に瀕するのだという理解が、養護児童についてあまり注目されてこなかった」と指摘している。著者の増沢は「施設職員や里親は、入所時や委託時あるいは自分が担当になったときに、ある種の錯覚に陥りやすい。それは、自分がかかわりを持ち始めた時から、その子の人生が始まったかのような錯覚である(2012)」と大人と子どものあいだに起こるすれ違いが起きやすいことを呈示している。

 このような問題意識から、「喪失への対応:人生の連続性を保証する取り組み」についても整理されている。そこでも、未来に目を向けるだけではなく、子どもの過去に目を向ける取り組みが重要であることを示唆し、「虐待を受け、否定され、見捨てられてきた過去を持つ子どもが共通してかかえる絶望的な存在の喪失に目を背けずに寄り添い続けるには、人間の心への深い洞察力が求められ、かつ支援者の人生観や心の強さが問われよう」と締めている。


【発表者の感想】

 児童養護における子どもの対象喪失そのもののインパクトは大きい。しかし、その後の社会的養護における施設職員や里親との間での対象喪失体験への捉え方、感じ方の違いが更に大きな実存的喪失につながる。このことは、間主観的隔たりとして概念化される部分であろう。多くの資料にあたりながら、このことが改めて実感させられた。

 また、その対応についても、単純な方法論にとどまらず支援者の態度や姿勢について触れようとしている点が重要だと感じた。一方で、その「態度」や「姿勢」については本論では抽象的で具体性に欠けるようにも感じられた。この点は、施設心理士や施設職員と話しているときにも感じる点であるが、ではその「態度」や「姿勢」はどのように身に着けていけばいいのだろうか。How-toに陥ることなく、関係の中で何が起きているのかを問い続けることが必要であろうとは思うものの、自分自身どうやってその姿勢を持つことが出来るのか、持てたとしてどうやって維持して行くのだろうか。そのことを多職種連携の中でどのように伝えていけばよいのだろうか。論文そのものから、外れた疑問になっているとも思うものの、NAPIの先生方がどのように実践されているのか、それを通じて自分自身の臨床の在り方を問い直す機会としたい。


浅田伸史(小松市民病院)

NAPI's Journal Club Blog

NAPI精神分析的間主観性研究グループ・ジャーナルクラブのブログです。認定会員が定期的に論文や書籍を選び、その内容についてレポートしたものの一部をここで紹介していきます。